寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(二十二)

                                     しきし
 越後のある小都会の未知の人から色紙だったか絹地だったかをお
 
くって来て、なにかその人の家のあるめでたい機会を記念するために
                            きごう
張り交ぜを作るから何かを揮毫して送れ、という注文を受けたこと
 
があった。ただし、急ぐからおよそ何ごろまでに届くように、とい
 
う細かい克明な注意まで書さ添えてあった。
 
 そのままにして忘れていたらやがて催促状が来て、もし「いやな
 
らいやでよろしく」それなら送った品を返送せよというのであった。
 
それでびっくりしてさっそく返送の手続きをとったことであった。
 
 それから数年たった近ごろ、また同じ人からはがき大の色紙を二、
 
三枚よこして、これに何か書いてよこせ、「大切に保存するから」
 
と言って来た。
 
 ちょっと日本人ばなれがしている。アメリカのウォール街あたり
 
の人のように実にきびきびと物事をビジネス的に処理する入らしく
 
思われる。
 
 ただ、こういう気質の人のもつ世界と自分らの考えている俳句の
 
世界とがどういうふうにつながり、どういうぐあいに重なり合って
 
いるかという事がちょっと不思議に思われたのであった。
 
 今度は催促されないように折り返し色紙を返送した。
 
(昭和九年十二月、渋柿)


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