寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 昨年九月の暴風雨で東京の街路樹がだいぶいじめられた。たぶん
 
いわゆる「塩風」であったためか、樹々の南側の葉が焦げたように
こくかっしょく
黒褐色に縮れ上がって、みじめに見すぼらしい光景を呈していた。
                すずかけ
丸の内の街路の鈴懸の樹のこの惨状を実見したあとで帝劇へ行って
                         ほり             いしがけ
二階の休憩室の窓からお掘の向こう側の石崖の上に並んだ黒松をな
 
がめてびっくりした。これらの松の針葉はあの塩風にもまれてもち
                                                  じんあい
っとも痛まないばかりかかえってこの嵐に会って塵埃を洗い落とさ
 
れでもしたのか、ブラシでもかけたかと思うようにその濃緑の色を
 
新鮮にして午後の太陽に照らされて輝いているように思われた。
 
 日本の海岸になぜ黒松が多いかというわけがはじめてはっきりわ
 
かったような気がしたのであった。
 
 国々にそれぞれ昔から固有なものにはやはりそれぞれにそれだけ
 
のあるべき理由があるのである。


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