寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




                で し
 夏目先生のお弟子と見られている人がかなりおおぜいいるようで
 
ある。この「お弟子」の意味がずいぶん漠然としていて自分にはよ
 
くわからない。少し厳密に分類するとこの「お弟子」の種類が相当
 
たくさんにありそうである。古いほうでは松山の中学校で先生から
 
英語を教わった人たちがある。その中でそれっきりもう直接には先
 
生と交渉を失った人々もやはり弟子の一種である。またそうした人
 
たちの中で後になって再び先生と密接な交渉をもつようになった人
 
の中でもMN君のようにあらゆる意味で師事した人もあれば、また
 
MB氏のように医師として接触した人もある。それからまた熊本高
 
等学校時代に英語を教わった人々、その中で自分などのように俳句
 
をも教わったために先生の私邸に出入することのできた果報ものも
 
ある。もしかすると逆に出入するために俳句を教わったのではない
          けんぎ
かという嫌疑もなくはない。また先生の家に食客となって日常親し
 
く先生の人に接近することのできた幸運の人たちもある。次には先
                いちこう
生の東京時代に一高や大学で英語英文学を教わった広い意味での弟
                                せんだぎちょう
子たちがある。その中で先生の千駄木町時代にその門に出入した人
 
たちがある。一方では英文学科以外の学生でそのころの先生の門下
 
に参じた人もあるかと思われる。
 
 千駄木時代は先生の有名になり始めからだいたい有名になりきる
                                                ぐ び じんそう
までの時代で、作品から言っても「猫」から「虞美人草」へかけて
                                                         しっか
の時代である。このころの先生にひさつけられて先生の膝下に慕い
 
寄ったお弟子にはやはりそれだけの特徴がありはしないかと思われ
         にしかたまち
る。短い西片町時代を経て最後の早稲田時代になると、もう文豪と
 
しての位地の確定した時代で、作品も前とはだいぶちがった調子の
 
ものになってしまっていた。この時代に新たに門下に参じた人々の
 
中には千駄木時代の先生の要素に傾倒した人とまたこの時代の先生
                けんいん
の新しい要素に牽引された人とがあって、それぞれちがった特色を
 
もっているのではないかと想像される。しかし具体的の分類をしろ
 
と言われるとやはりむつかしい。
 
 それはとにかく先生の芸術なりまたその芸術の父なる先生の人に
 
吸引されてしばしばその門に出入した人々を「お弟子」と名づける
 
ことになっているようである。しかしこの上記の定義は実ははなは
 
だ不完全であるかと思われる。たとえば故○○君のごとく先生に傾
                                                            きごう
倒して毎週ほとんど欠かさず出入りして、そうして先生の揮毫を見
 
守っていた人が、やはり普通の意味でお弟子と言われるかどうか疑
 
問である。そのほかにも始終先生に接していながら先生からどれだ
 
けの精神的影響を受けたかということがわかりにくい人もあるかも
 
しれない。反対に先生に壊しないでただその作品だけから異常に強
 
い影響を受けている人もたくさんあるかもしれない。こうなると何
 
がお弟子で何がお弟子でないかわからなくなってしまう。
 
 しかし、どんな人でも先生に接して後のその人を見て、もし先生
 
に接しなかったとした場合のその人を推察することは不可能である
 
から、先生の影響が無いなどとは言われないわけである。してみる
                                                           ひんど
と結局「お弟子」の定義には証明の可能な「門戸出入」の頻度を標
 
準とするのが唯一の「実証的」な根拠なのであろう。
 
 もし何かの訴訟事件でも起こつて甲某が先生の弟子であったか、
 
なかったかという事が問題になったとしたらそんなことがありうる
 
かどうかは知らないがその時にはやはりこの「実証」以外に何物も
 
物を言わないであろうと思う。
 
 お弟子の名もはかないものである。


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