寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




              いちぐう
 上野公園の一隅にある鉄筋コンクリートの建物の中で時々科学者
 
が寄り集まって事務的な相談会を開くことがある。事務は事務だが
 
ともかくもむつかしい学問に関係した人事の相談である。寄り合う
 
人々はみんなまじめな浮世離れのした中年以上の学者ばかりである。
 
こういう会が朝の十時ごろから始まって昼飯時一時間の休憩がある
 
だけで午後六時ごろまでもぶっ通しに続くことも珍しくない。
 
 こういうとさに、会が終わってほっとした気持ちで外へ出て、そ
 
うして連れに別れて一人でぶらぶら公園を歩いていると、いつも見
 
飽きるほど見馴れた公園の森や草木が今までかつて見たことのない
 
ように異常に美しく見え、また行き通りの人々の顔が実に楽しく喜
 
ばしそうに見え、そうして特に女子供がたとえようもなく美しく愛
 
らしく見えてくる。今まで堅く冷たくすっかり凍結していた自分の
 
中の人間らしい血潮が急に雪解けのように解けて流れて全身をめぐ
 
り始めるような気がするのである。
 
 学者であって、しかも同時に人間であることがいかにむつかしい
 
ものかということをつくづく考えさせられるのは、そういう時であ
 
る。


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