寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 ある日電車で新宿の通りを通過しながら街路をながめていると、
 
両側の人道にほとんど軒並みに同じような建て札が立ち並んでいる。
 
見るとそれには区会議員か何かの候補者の名前が書いてある。小さ
 
な張り板ぐらいの恰好の木枠に白紙を貼って、それに筆太に墨黒々
     はらの くろう          こすげらいぞう          ふ わ い せ じ
と「原野九郎」とか「小菅雷三」とか「不破伊勢次」とかそういっ
 
た感じのする名前が書きひけらかしてある。
 
 その建て札に交じってまたところどころこれとよく似てはいるが
 
少し風変わりな建て札が見える。それには「よせ鍋はま鍋」「蒲焼
 
三十銭」「○○大特売大安売り」などという文句が読まれる。
 
 建て札が同型であるという事実の裏にはその建て札の内容にも若
 
干の共通点があるという事を暗示するのではないかという気がした。
 
 どちらも「売り物」である。そうしてどちらにも用心しないと喰
 
わせ物があるかもしれない。
 
 食物や商品のいかものが市民に及ぼす害毒は、腐敗した議員たち
 
のそれに比べたらそれほどでもないであろう。


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