寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




       しっぽ
 猫の尻尾は猫の感情の動さに応じてさまざまの位置形状運動を示
 
す。よく観察していると、どういう場合にどんな恰好をするかとい
 
うことはいくらかわかって来る。しかし、尻尾のないわれわれ人間
 
には猫の「尻尾の気持ち」を想像することは困難である。舌で舐め
     あとあし
たり後脚で掻いたりする気持ちはおおよそ想像してみることができ
 
ても尻尾の振りごこちや曲げごこちは夢想することもできない。従
 
ってわれわれは猫の尻尾の行動について「批評」する資格を持ち合
 
わせない。
 
 科学の研究に体験をもたない言わばただの「科学学者」の科学論
 
には往々人間の書いた「猫の尻尾論」のようなのがあるのも誠にや
 
むを得ない次第であろう。


前へ 次へ
[寺田寅彦] [文車目次]