寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




                          か ぜ                            しょうじ
 昭和九年十月十四日、風邪をひいて二階で寝ていた。障子のガラ
                              とんぼ
ス越しに見える秋晴れの空を蜻蛉の群れが引っ切りなし
 
にだいたい南から北の方向に飛んで行く。よく見るとほとんど皆二
 
匹ずつタンデム式につながったもので、孤独な飛行者はき
 
わめてまれである。おそらく二十分ぐらいの間この群飛がつづいた
 
ので、数にしたらおそらく莫大なものであろうと思われた。ちょっ
 
と見積もっても数千という数であろうと思われる。
 
 この群れはどこの池沼で発生して、そうしてどこを目ざして移住
 
するのか。目的地の方向を何で探知するか。渡り鳥の場合にでも解
 
釈のつきにくいこれらの問題はこのいっそう智能の低い昆虫の場合
 
にはいっそうわかりにくそうである。
 
 二匹ずつつながっているのが、それぞれ雌雄のひとつがいだとす
              むこ    よめ
ると、彼らの婿選み嫁選みがいかにして行なわれるか。雌雄の数が
                                            らく ご しゃ
同一でない場合に配偶者をもとめそこねた落伍者の運命はどうな
 
るか。
 
 こうした問題が徹底的に解かれるまでは人間の社会学にもまだど
 
んな大穴が残され忘れられているかもしれないであろう。


前へ 次へ
[寺田寅彦] [文車目次]