寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
 親がつけてくれた名が気に入らなくなって改名する人がある。姓
 
名判断という迷信的な俗説を信じて改名するのはまた別であるが、
 
そうでなくて改名する人にはおのずから共通な性質があるような気
 
がする。あえて弱点というほどではないがとにかく若干の人のよさ
 
があるような気がする。
 
 自分の知った人で非常に珍しい姓があった。おまけに名まで変っ
                                       むとんじゃく
ているのであったが、その人は快活で無頓着な性質で自分の姓名の
 
変なことなど意に介しないように見えた。ところがその人の子供が
 
小学枚へはいるころになって重大な問題がその名字にからんで起こ
 
って来た、と言うのは、その子が学校でみんなにその名前をからか
 
われ笑われるのをひどく気にして学校がいやになり気持ちがだんだ
 
んひがんで来た。そうして、そのためだかどうだか、そこまではだ
 
れにもわからないが、とにかくまもなく病死してしまった。その後
 
その子の父は郷里へ帰って家系に関する徹底的の調査をして、何か
 
しら適当の理由らしいものを捜し出し、それを申し立ててやっとの
 
事で革姓の手続きを済ますことができた。
                           こうようさんじん
 これで思い出すのは、昔紅葉山人の書いた何かの小品の中に、物
 
好きな父親がその女の子におさるという名をつけた話があったよう
        みょうれい
に思う。妙齢になってしかも人並みすぐれて美しい娘を父親が人前
 
でおさるおさると呼び立てた、というのである。その結果がどうな
 
ったかは忘れてしまった。
 
 電車の運転手や車掌には実際変った姓名が多いようである。しか
 
し、これが、異った姓名の人は車掌や運転手になる確率が多いとい
 
う証拠にはならない。たとえば一方には車掌運転手の名簿、一方に
 
は帝国大学生の名簿を置いて比較統計を取ってみなければならない。
 
しかしそうなると「変った姓」と「変っていない姓」とを分類する
 
標準が非常にむつかしくなってちょっと手がつけにくい仕事になる
 
であろうと思われる。
 
 しかし、変った姓はしかたがないとして、断然変った名の持ち主
 
百人と、常識的にちっとも変っていないと判断される名の持ち主百
 
人とを選び出して、その当人は問題とせず、それらの人々の父親に
 
ついて、その社会的地位階級、教育の程度、趣味の品別等について
 
統計してみたら、あるいは多少の差別が認められはしないかという
 
気がする。
 
 もし多少でもそうであったとしらた、父の差別が子の差別に多少
 
でも反映していないとも限らないと考えられるのである。


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