寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
    琴

 
 学生時代には本郷へんの屋敷町を歩いているとあちらこちらの垣
                                                    ぶんきんたかしまだ
根の中や植え込みの奥から琴の音がもれ聞こえて、文金高島田でな
           いちょうがえ
くば桃割れ銀杏返しの美人を想像させたものであ
 
るが、昨今そういう山の手の住宅区域を歩いてみても琴の音を聞く
 
ことはほとんど皆無と言ってもいいくらいである。そのかわりにピ
 
アノの音のする家が多くなったが弾いている曲はたいてい初歩の練
 
習曲ばかりである。まっ黒な腕と足を露出したおかっぱのお嬢さん
 
でない弾き手を連想するのは骨が折れるようである。
 
 たまにいい琴の音がすると思ってよく聞くとそれはラジオである。


前へ 次へ
[寺田寅彦] [文車目次]