寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
  不 審 紙

 
 子供の時分に漢籍など読むとき、よく意味のわからない箇所にし
                           ふしんがみ
るしをつけておくために「不審紙」というものを貼り付けて、あと
                                               しおり
で先生に聞いたり字引きで調べたりするときの栞とした。
  たんざくがた         と  う  し
 短冊形に切った朱唐紙の小片の一端から前歯で約数平方ミリメー
 
トルぐらいの面積の細片を噛み切り、それを舌の尖端に載っけたの
                つめ
を、右の拇指の爪の上端に近い部分に移し取っておいて、今度はそ
                                                のみ
の爪を書物のページの上に押しつけ、ちょうど蚤をつぶすような工
 
合にこの微細な朱唐紙の切片を紙面に貼り付ける。この小紙片がす
 
なわち不審紙である。不審の箇所をマークする紙片の意味である。
 
噛み切る時に赤い紙の表を上にして噛み切り、それをそのまま舌に
 
移し次に爪に移して貼り付けるとちょうど赤い表が本のページで上
 
に向くのである。朱唐紙は色が裏へ抜けていなかったから裏は赤く
 
なかったのである。
 
 そのころでもすでに粗製のうその朱唐紙があって、そういうのは
       だ えき
色素が唾液で溶かされて書物の紙をよごすので、子供心にもごまか
                             ふんまん
しの不正商品に対して小さな憤懣を感じるということの入用をした
 
わけである。
 
 不審が氷解すればそこの不審紙を爪のさきで軽く引っ掻いてはが
 
してしまう。本物の朱唐紙だとちっともあとが残らない。
 
 中学時代にはもう不審紙などは使わなかった。そのかわりに鉛筆
 
や紫鉛筆でやたらにアンダーラインをしたり、?や!書き並べて、
                                                         ついしょう
書物をきたなくするのが自慢であるかのような新風俗に追蹤してず
 
いぶん勉強して多くの書物を汚損したことであった。
 
 それはとにかく、日本紙に大きな文字を木版刷りにした書物のペ
 
ージに、点々と真紅の不審紙を貼り付けたものの視像を今でもあり
 
ありと想い出すことができるが、その追憶の幻像を透して、実にい
 
ろいろな旧日本の思想や文化の万華鏡がのぞかれるような気がする
 
のである。


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