寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
   死 刑 囚

                                  ヒストロギー
 友人の生理学者が見せてくれた組織学の教科書
 
の中にいろいろな人体の部分の顕微鏡写真がたくさん掲載されてい
 
る。その図の下にある説明を読んで行くと「ある若き死刑囚の○○」
 
といったようなものがかなり多数にある。
  とら  ひょう
 虎や豹は死してその毛皮をとどめる。そうして人間の生活になに
 
がしかの貢献をすると同時に自己がかつてこの世に生存していたと
 
いう実証を残す。
 
 この世に活かしておけないという理由で処刑された人間の身体の
 
一局部のきわめて微細な顕微鏡標本は生理学や医学の教科書に採録
 
されて世界の学徒を教育する。
 
 くだらない人間や、あるいはきわめていけない人間の書いたもの
                                                               いつわ
でも後世を益することはある。たとえそれがどんなにうそでも詐り
 
でも、それでもやはり人間のうそや詐りの「組織」を研究するもの
 
の研究資料としての標本になりうる。ただしそれが「詐らざるうそ」
 
「腹から出たうそ」でないと困るかもしれない。
                      いつわ
 とは言うものの、「佯りのうそ」でも結局それがほんとうに活き
 
ていた人間の所産である限り、やはりそれはそれとしての標本とし
 
て役立つかもしれない。
 
 全く役に立たない人間になる、ということほどむつかしい事はな
 
いかもしれない。
 
(昭和十年七月三日)


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