寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 左の足が痛むのでびっこをひいて歩いていたら、その効果で今度
 
は腹と腰とのつがい目の所の筋肉が痛んで立ったりすわったりする
 
たびにそれが飛び上がるほど痛むのであった。立っているか寝てい
                                           せき
ればなんの事はない。しかしちょっとでも咳をするとそれがひどく
 
痛み所にひびく。
 
 いろいろな動作でちっともそこにひびかぬ動作とひびく動作があ
 
る。それでこの特別な筋が平生いかなる動作にいかなる程度に動員
 
されているかということが実によくわかった。健康な場合には到底
 
わからないことである。物の効用は、それが失われてみて始めてよ
 
くわかるという一例である。
 
 すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉
 
が引きつって痛む。
 
 物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであ
 
った。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのであ
 
る。意外な「発見」であった。


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