寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 秋晴れの午後二階の病床で読書していたら、突然北側の中敷窓か
 
ら何かが飛び込んで来て、何かにぶつかってばたりと落ちる音がし
 
た。郵便物でも外から投げ込んだような音であったが、二階の窓に
 
下から郵便をほうり込む人もないわけだから小鳥でも飛び込んだか
 
しらと思ったが、からだの痛みで起き上がるのが困難だから確かめ
 
もせずにやがて忘れてしまっていた。しばらくしてから娘が二階へ
 
上がって来て「オヤ、これどうしたの」と言いながら縁側から拾い
                                     うぐいす
上げて持って来たのを見ると一羽の 鶯 の死骸である。かわいい小
 
さなからだを筒形に強直させて死んでいる。
 
 北窓から飛び込んで南側の庭へ抜けるつもりでガラス障子にくち
                  のうしんとう
ばしを突き当てて脳震盪を起こして即死したのである。「まだ暖か
                     あいぶ
いわ」と言いながら愛撫していたがどうにもならなかった。
 
 鳥の先祖の時代にはガラスというものはこの世界になかった。ガ
 
ラス戸というものがでさてから今日までの年月は鳥に「ガラス教育」
 
を施すにはあまりに短かった。
 
 人間の行路にもやはりこの「ガラス戸」のようなものがある。失
 
敗する人はみんな眼の前の「ガラス」を見そこなって鼻柱を折る人
 
である。
 
 三原山火口ヘ投身する人の大部分がそうである。またナポレオン
 
もウィルヘルム第二世もそうであった。
 
 この「ガラス」の見えない人たちの独裁下に踊る国家はあぶなく
 
て見ていられない。


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