隣家に犬がいる。戸外へは出さないらしいので姿は一度も見たこ
たいく
とがない。夜中にほえている声から判断すると相当体躯の大きな堂
々たる犬らしい。ところが、この犬が時々不思議な鳴き方をする。
人間が何か泣きごとでもいっているかと思うような声を出すかと思
うと、首でも締めて殺されかかっているのかと思うような悲鳴を上
げる。そうかと思うとかんしゃくが起こってくやしがってきゅうき
ゅういっているような奇妙な声を出す。だんだん気をつけてみると
そういう不思議な鳴き方をするのは、ほとんどきまって豆腐屋のラ
ッパが遠くから聞こえてだんだん近よって来るときか、またはたぶ
ん豆腐屋であろうかチリンチリンと鈴を鳴らしながら前を通るとき
であるらしい。どういうわけか知らないが、そのラッパや鈴の音を
開くと、堪えがたい恐怖か憤懣がこの犬の脳神経中枢をいらだたせ
るものと思われる。
生理学のほうで「条件反射」という現象がある。この犬の場合は
あるいはその一例かもわからない。まだ小さい時分に何かしら同じ
ような音響のする場所でたびたびひどい目に遇った経験の記憶が、
この動物の脳髄に焼き付けられたように印象されているのかもわか
らない。
それともまた、この犬は何か耳の病気があって、ある一定の高さ
の音がとくに鋭く病的にその聴覚を刺戟するのかもしれない。これ
はただ犬の話であるが、われわれ人間でもよく考えてみるとこれと
よく似た現象がいくらでもあるらしい。そこらの花盛りを見て心が
浮き立ったり、秋の月を見て物を思わされたりするのもその一例で
あるが、これらは国民全体に共通な教育による「条件反射」のよう
なものである。しかしもっと特殊な例としては、芋虫を見るとから
くも
だがすくんでしまう人や、蜘蛛がはい出すと顔色を変えるようなの
もある。中学時代の同窓で少し強い風の吹く日にはこわくて一歩も
外へ出られないのがあったが、その男はまもなく病死してしまった。
やはりどこか「弱い」ところがあったのかもしれない。
(昭和十年十月十日)