寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 辻待ちの円タク、たとえば曙町まで五十銭で行かないかというと、
 
返事をしないでいきなりそっぼを向いてしまうのがある。いやな顔
 
をしてきわめてゆっくりかぶりを振るのもある。それからまたにこ
 
にこと愛嬌笑いをしてもう十銭やってくださいといいながらドアに
 
手をかけてインヴァイトするのがある。
 
 前者はペシミストであり、後者はオプチミストであるともいわれ
 
る。しかしまた全くその反対だともいわれる。
 
 いつか上野駅の向かい側のある路地の自動車停留場で、いちばん
 
先頭の車の運転手に例のとおり曙町まで五十銭で行かないかといっ
 
たら、あまり人相のよくないその男は「イカネエ」と強い意味をそ
 
の横にひん曲げた口許に表示したかと思うと、いきなりエンジンを
 
スタートして走り出した。そうして獲物をねらう鷹のような鋭い目
 
を集注しているその視線の行く手を追跡してみると、すぐにその焦
 
点がはっきりされた。今上野駅から出て来たらしい東北出と思われ
  お や こ
る母娘連れがめいめいに大きなふろしき包みをかかえて、今や車道
 
を横切ろうとしてあたりを見回しているところであった。
 
 この場合は悲劇的であるかもしれないが、またひどく喜劇的であ
 
るかもしれない。そんな事を考えながらスーツケースを右手にぶら
 
さげてぶらぶらと山下のほうへより多く合理的な運転手を物色しな
 
がら歩いて行った事であった。
 
(昭和十年十月十日)


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