寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 隣に栗の樹が一本ある。二十年前にここへ移って来たころには、
                       むね
まだいくらも隣の家の棟を越えないくらいの高さであった。
 
それが年々に眼に見えるように伸び茂つて、夏はこんもりした木蔭
 
を作り、いっぱいに咲いた花がこちらの庭に散りこぼれ、やがて腐
                      におい                              え
れて甘ずっぱいような香をみなぎらせた。秋が来ると笑みこぼれた
 
栗の実がこちらの庭へも落ちるのを、当時まだ小さかった子供らが
 
喜んで拾いながら大声で騒いでいたら、やがてお隣からお盆にのせ
 
てたくさんな栗の実を持たせてよこした。家内じゅうは顔を見合わ
 
せてきまりの悪い思いをしたことであった。
                                               きざし
 この栗の樹が近年になってなんとなく老衰の兆を見せてきた。夏
 
の繁りもなんとなくまばらで、栗の実の落ちる数も眼立って少なく
 
なって来た。
 
 次第に悪くなる東京の空気のせいであるのか、それともこの樹の
 
本来の寿命によるものか、どうだか自分にはわからない。
 
 とにかく栗の樹などというものは人間よりは長生きするものとば
 
かり思っていたが、一概にそうでもなさそうである。
 
(昭和十年十月十一日)


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