寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



                                    かか
 夜中にからだじゅうの痛む病気に罹って一晩じゅう安眠ができな
 
い。この広い世界のすべての存在が消えてしまって自分のからだの
                                       びまん
痛みだけが宇宙を占有して大千世界に瀰漫しているような気がして
 
いる。夜が明けて繰りあけられた雨戸から空の光が流れ込む。ガラ
                 かえで ひのき
ス障子越しに庭の楓や檜のこずえが見え、隣の大きな栗の樹の散り
 
残った葉が朝風にゆれていて、その向こういっぱいに秋晴れの空が
 
広がっている。
 
 そういうときにどうしたわけかわからないが、別に悲しくもなん
 
ともないのに涙が眼の中にいっぱいに押し出してくる。
 
 学生時代に、アヘン喫煙者が中毒からくる恐ろしい悪夢のために
 
悩まされていたのが、突然その夢がさめて現実にかえって、片方に
 
いる人間の顔を見た時に、涙が止め度もなく流れたというくだりを
 
読んだ記憶がある。
 
 悲しいときの涙、うれしいときの涙、その他いろいろな涙のほか
 
にこうしたような不思議な涙がまだほかにもいろいろありそうな気
 
がする。
 
(昭和十年十月十一日)


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