寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 銀座のオリンピックで食事をしていたら、同じ食卓の向かい側に
 
腰を掛けて何か食っていた中年の男が新たにパンを注文した。柔ら
 
かい六角のパンを持って来た女給に「これでない堅いやつを持って
 
来い」といって、手まねでその形をして見せた。
 
「フレンチロールですかコッペーですか。」「ああ、そのコッペー
 
だ。」「焼いて持って参りましょうか。」「いや焼かないで持って
 
来い。」やがてそのコッペーを皿に入れて持って来たら「ああやっ
 
ぱり焼いて持って来てくれ」といってその皿をつきだした。
 
 こうした型の男はおそらくなんでもまめによく仕事をしまた世話
 
のできる人であろう。おそらく嫁や養子の世話から相手の人のネク
 
タイの世話までやく人かもしれない。しかし、「俳諧」のほうには
 
どうも不向きらしい。
 
(昭和十年十月十四日)


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