寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



                                                            りゅうきゅうあわ
 ある日電車の中で有機化学の本を読んでいると、突然「琉球泡盛
もり
酒」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをい
 
くら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、
 
たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板
 
にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中
 
へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がい
 
ろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそうい
 
う、心像の位置転換が容易にできたものと思われる。
 
 人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。
 い つ いくか
何時幾日にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中に
 
どういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、
 
現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物
 
が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにも
 
できそうにない。
 
(昭和十年十月十四日)


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