島崎藤村

「若菜集」より


  
 おつた


  ほの み
花仄見ゆる春の夜の
              わがいのち
すがたに似たる吾命
おぼろおぼろ  ちちはは
朧  々に父母は
 
二つの影と消えうせて
    みなしご
世に孤児の吾身こそ
 
影より出でし影なれや
 
たすけもあらぬ今は身は
わか ひじり
若き聖に救はれて
            まへがみ
人なつかしき前髪の
をとめ
処女とこそはなりにけれ
 

わか ひじり
若き聖ののたまはく
 
時をし待たむ君ならば
          み
かの柿の実をとるなかれ
 
かくいひたまふうれしさに
 
ことしの秋もはや深し
 
まづその秋を見よやとて
ひじり
聖に柿をすゝむれば
    くちびる
その口唇にふれたまひ
 
かくも色よき柿ならば
 
などかは早くわれに告げこぬ
 

わか ひじり
若き聖のゝたまはく
          を
人の命の惜しからば

嗚呼かの酒を飲むなかれ
 
かくいひたまふうれしさに
 
酒なぐさめの一つなり
 
まづその春を見よやとて
ひじり
聖に酒をすゝむれば
 
夢の心地に酔ひたまひ
 
かくも楽しき酒ならば
 
などかは早くわれに告げこぬ
 

わか ひじり
若き聖のゝたまはく
       いそ
道行き急ぐ君ならば
 
迷ひの歌をきくなかれ
 
かくいひたまふうれしさに
        すがた
歌も心の姿なり
 
まづその声をきけやとて
 
一ふしうたひいでければ
ひじり たま
聖は魂も酔ひたまひ
 
かくも楽しき歌ならば
 
などかは早くわれに告げこぬ
 

わか ひじり
若き聖のゝたまはく
 
まことをさぐる吾身なり
 
道の迷となるなかれ
 
かくいひたまふうれしさに
なさけ
情も道の一つなり
      おもひ
かゝる思を見よやとて
 
わがこの胸に指ざせば
 
聖は早く恋ひわたり
 
かくも楽しき恋ならば
 
などかは早くわれに告げこぬ
 

 
それ秋の日の夕まぐれ
 
そゞろあるきのこゝろなく
 
ふと目に入るを手にとれば
ゆき        こいし
雪より白き小石なり
わか ひじり
若き聖ののたまはく
 
智恵の石とやこれぞこの
 
あまりに惜しき色なれば
               は
人に隠して今も放なたじ



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