・萌えについて提出された幾つかの考え
 ――私の読んだところの、二冊の本を中心に――

Ver.1.10(2006.02/28)

 男性オタクが消費する様々なオタクコンテンツ(特にアニメ・漫画・ゲーム)において、女性キャラクターが大きな位置を占めてきたことは、皆さんもよくご存じのことと思う。古い時代においても、『機動戦士ガンダム』のセイラさん・『めぞん一刻』の響子さん・ 『ワルキューレの冒険』のワルキューレ・『同級生』シリーズの田中美沙等々の様々な女性キャラ達がオタク達の心を鷲掴みにし(いずれも同人世界でも活躍)、比較的新しい時代においても彼女達の後継者は絶える事が無い。現在は、以前のように強烈な求心力を持った女性キャラクターがなかなか誕生しないかわりに、様々な特徴(以後、属性と表記)を貼り付けられたキャラクター達が次々に生まれ出ては消費され、新しいキャラクターにとってかわられる傾向が続いている。異性キャラクターが出現→消費→交代するスピードは往事とは比較にならないほど早く、この分野の爛熟ぶりが伺える。

それにしても、

 キャラ萌え、とはどういう事か?
 萌える時にオタク達はキャラに何をみているのか?
 何が脳内で起こっているのか?
 そしてどんな特徴のキャラが萌えの対象になりやすいのか?

 という質問に、あなたならどう回答するだろうか?

 もちろんこういった疑問に対する答えは現在ネット上には幾らでも転がっているし、斉藤環先生と東浩紀先生が非常にインパクトのある本を出してくれている。私はこのサイトで色々と萌えとオタクとセクシャリティについて論じてみるつもりだが、まずこのhtmlでは、無視する事の出来ない三つの重要な視点をとりあげ、それぞれについて簡単にレビューを試みてみようと思う。

 なお、以下のレビューに興味や違和感をお持ちになった方は、是非原文をあたってみて欲しい。所詮、以下の文章は私が読んで獲得したものに過ぎないわけで、原文をあたって頂ければより詳しい内容が理解できる筈です。



  ・1.古典的な考え方『キャラは属性という記号の集合体』

 「アニメや漫画の異性キャラクターが“属性”の集合体※1であり、オタク達は各々の嗜好に合わせてそれぞれの属性を貼り付けられたキャラクターを選択している」という指摘は、陳腐で素朴ではあってもキャラ萌えにおけるキャラクター選択について今なお一定の説得力を有している。確かにこの考えでは説明のつかない事も沢山あるし、それ故に後述する二つの考え方の面白さも際だってきたりするのだが、この視点を無視して次に進むのはどうかと思われるので書いておく。

 キャラクターを属性という名の記号が寄り集まったものとし、好みの属性が集合したキャラクターをオタクが選択して萌えているという考え方は、一体いつ生まれたものなのだろうか?最初の提言者が誰なのか、いつ頃の時代からなのかを私はよく知らないが、少なくとも1990年代後半にはこういった視点で萌えキャラを斬ろうという試みがネット上で展開されるようになっていた。

 今でも残存しているこうした考えに基づいたテキストを読むと、やや古くさい印象は否めないものの、現在のオタク達、特にエロゲー界のキャラ選択の実状に即しているように見える。後述する、東浩紀氏の『データベース消費』という視点との親和性も高く、少なくともこの論が『データベース消費』という視点を妨害するという印象は無い。『キャラは属性の集合体』という考え方は、萌えキャラ選択するという営みの、ごく表層的な部分だけを切り取った考え方なので、じゃあなぜそういう営みが行われているのかに関するwhyに答えるものではないが、そうと割り切ってしまえば、オタクの萌えキャラ選択の表層を綺麗に切り取ったものとしての説得力は有していると言えるだろう。『萌えキャラ=属性集合体』という考え方は、あくまで考察のスタート地点にしかならない、狭くて古い視点かもしれないが、狭い視点のなかでは有効に機能してしまっているので、部分否定はともかく、これを全否定して議論を展開することは難しい。実際、後述する二つの考え方は萌えキャラ=属性集合体という視点を全否定するような内容ではなく、この視点との整合性はさして損なわずに、より大きな議論を展開しているように思える。


 なお、この視点を早い頃から意識して議論を行っていた往事のサイトを見たい方には、質の高い例として恋愛ゲームZERO(現在Ragna archives network.の一部として収録されている。表はSocioLogicさん)」を推薦したい。このサイトは、美少女恋愛ゲームのコンテンツと消費者について古くから研究を続けていたが、オタク達がキャラを選択する際には属性に注目して(あるいは属性に釣られて)キャラやゲーム選択している事を早くから意識していたと思う。今読むとさすがに古さは感じるものの、アンケート調査をはじめ、このサイトにしか残っていない知見は今なお多く、捨てがたい魅力を放ち続けている。

 そして主催者・秋風さんの考察と平行して、Ragnaという大規模な萌えキャラ検索エンジンがサイト上に乗っかっている。Ragnaでは、キャラクター属性を入力すると、その属性を持ったキャラクターの登場する美少女ゲームを検索することが出来る。イラスト検索エンジンのTINAMIと比較すると、販売されている恋愛ゲームのキャラクターに的が絞ってある分、入力した属性に即した内容の検索結果がきっちり得やすいものに仕上がっているように思える。Ragnaが有効な検索エンジンとして十分機能していることもまた、この『キャラは属性という記号の集合体』という説明法の有効性を支持こそすれ、否定するものではないと考えるが如何だろうか?

 Ragnaと同時進行で生産されていた恋愛ゲーム関連の諸研究テキストを併せてみていくと、主催者・秋風さんが属性と恋愛ゲームに関して当時考えていた事をある程度伺うことが出来る。1998年のセンチメンタル・グラフィティに関する記事からパッケージ化の時代という記事に至るまでの、キャラ属性に深く関連したテキスト群だけでなく、“泣きゲー”をはじめとする恋愛ゲームのストーリーに関する考察、各年度ベスト恋愛ゲーム投票などを拝見すると、秋風さんが“キャラに張り付いた属性”だけを問題にしていたのではなく、もっと広い可能性を考慮していたことがが伺える(例えばこれ)。これら美少女恋愛ゲーム関連の研究は既に終了してしまっているが、今後もアーカイブとしての保存を是非お願いしたいところだ。


 ・東浩紀氏『データベース消費』という考え方

 そうこうしているうちに、2001年に入って、一歩進んだ考え方を呈示した人が現れた。東浩紀氏による『動物化するポストモダン』である。この本においては、“オタク達は、オタク界に無数に浮遊するデータベースの海から、自分の好みにあった設定を抜き出し、萌えるなりなんなりという形で消費する”という考え方が呈示された。前述の、『キャラは属性という記号の集合体』という考えからさらに前進し、ストーリーやテキストなどもデータベースの要素として含んだより広い範囲をカバーした考えになっている。ここでいう『データベース』とは、従来のキャラ属性という狭い範囲に限局されたものを取り扱う言葉ではなく、『お約束』『サウンド』『テキスト』までも含んだ広い概念となっている。オタク界隈で営まれている“萌え”も、“二次創作”も、果ては“プロが作った作品”も、こういったデータベース複合体の組立・消費という概念で説明できるのではないか、というのが東氏が指摘するところであった。(と私は読んだ。ヘンな読み方だったらすんません。でもhtmlんとこは確かにヘンだよ先生!)

 『データベース消費』という考え方においては、オタク達はキャラ属性・設定・サウンド・定型的なテキスト展開・オタク的修辞などのデータベース複合体を手にとって、各人各様に好きなように(主として脳内や同人界で)組み合わせて消費(≒萌える)していると捉える事が出来る。見ているDVDや本が同じであっても、そのデータベース複合体から個人個人が抽出して脳内で消費しているさま(脳内で形成され消費されるシミュラークル)は必ずしも同じとは限らない、とされている。同じ作品を見ていてもその脳内での消費の有り様(シミュラークル形成/消費)は多種多様でもおかしくなく、むしろ多種多様であろうという氏の考え方は、脳内補完現象・同人界や制作会社から作られるコンテンツの類似性・独創性にまつわる幅広い現象を説明出来る(と私は考えている。DVDやら本やらも、同人誌同様、それ自体もシュミラークル)。前述の、『キャラは属性という記号の集合体』という考え方も、この『データベース消費』という考え方に綺麗に包み込まれる事が可能なので、そちらとの違和感も少ない。消費する側と生産する側の境界が曖昧で、オリジナル/コピーといった区別もわけがわからないオタク界隈の現状を、何とか一言で説明しようとした考えとして、かなりの評価が与えられてもいいのではないだろうか。

 それにしても、このような『データベース消費』という考え方は、こんな私でもどこかで聞いたようなポストモダンのお話に随分似ているなと感じるわけで、事実、この本の中でもボードリヤールのハイパーリアリティとの親和性・相違に関する指摘がある。のみならず、東氏は現在の(特に日本の)ポストモダン的状況と『データベース消費』との関連について論じ、オタク界隈の表層を撫でるに留まらない奥行きをこのdiscussionに与えようとしている。実際、こういった考え方はオタク界隈のデータベース消費だけに当てはまるものではないだろう(し、逆にデータベース消費・オタク分析を通してジャパニーズポストモダンが必ず語られなければならないものか?という疑問も沸いてくるが、ボク面白いからいいや)。ポストモダンの話との関連や、非オタク界隈との共通点の感触などは、『データベース消費』という考えの持つもう一つの顔であり、この本を精読する上で重要なファクターなのだろうが、私にはまだまだ語る事が難しいため、本テキストでは、“とにかくそういう匂いがしましたよ”という個人的印象を語るに留めたい。

 とはいうものの、オタクコンテンツの生産・消費(勿論キャラ萌えを含む)について単なるキャラ属性萌え以上の提言を行ってくれたという点だけでも、この本は萌えというものを俯瞰する上で重要な仕事をしてくれていると思う。哲学的論争は置いておくとしても、また、オタク界隈に関する氏の経験不足や“そのシミュラークルの組みようにも質的な優劣が存在してたりする事への言及欠落”などが気になるにしても、十分刺激になるテキストなので、萌えに興味のある人は一読してみるのもいいだろう。私はこの人のテキストを追いかけてみたいと思っている。



 ・斉藤環Dr.『戦闘美少女の精神分析』

  そして三つめに挙げたいのは、精神科医の斉藤環先生.による『戦闘美少女の精神分析』である。2000年に書かれたこの本もまた、オタクが“萌える”という現象について書かれた本だが、これまでに挙げた二つの考え方とは全く異なる、主として神経症圏に対する精神分析の考え方を援用したアプローチが為されている※2

 先生はこの本の中で、オタクの精神病理の中核はセクシャリティであると喝破する。オタク達は自らの趣味領域に性生活の一部or全部を確保している、という指摘は実に的を射ていて、あんぐりするしかない。、少なくとも私のオタク仲間は全員これに当てはまってるし、私が自サイトでターゲットとしている男性オタク達とは、まさにこのような人達である。先生は鑑別のポイントとしてこう提案している「アニメ絵で抜けるか否か、それがオタクか非オタクか」、と。事実、萌えオタクと呼べる人達はアニメ絵でリビドーを感じることが可能だし、萌えという分野を離れた様々なフィールドにおいても、オタク達の女性コンプレックスが露わになる事は少なくない。ここら辺の、萌え以外の分野も含めたオタク達の異性コンプレックスの存在という点は、神経症圏としてのオタクの精神病理※3を描写するには避けては通れないポイントだと思う。特に、

・モテない事を自称するオタク達が、異性を前にした時の振る舞い
・多くのオタクが異性に関連する諸要素にみせる反応・緊張
・萌えに対する緊張やポージングや(密かで激しい)性的欲求


 等はいかにも“抑圧された何か”“防衛機制”を予感させるものに満ちており、わざわざラカンを援用するまでもなく、殆どの精神科医がピンと来る何かを感じ取るのではないかと私は推定している。少なくとも私はいつもピンと来まくっている(オタクたる私自身にもピンと来るが、精神分析に忠実になるなら、自分にピンと来るなんて書いちゃいけない、本当は)。また、症例4の考察に書いた通り、思春期前期〜中期にかけて、多くのオタク達が女性に対する劣等感や不全感を耐えるしかない生活史を送っている事も上記の考えを支持する。

 だが、斉藤先生は、『オタク達が葛藤に対する防衛機制の一環として萌えている』としてハイオシマイとはしなかった。萌えキャラそのものと萌えキャラを包含するメディア(この場合は漫画やアニメ、そして日本語)が持つ構造が、オタク達の萌えを可能にする装置として働いているのではないか、という問いかけもやっている。オタク達の精神病理にだけに依るのではなく、萌えキャラ&萌えメディアそのものにもリアルなセクシャリティを牽引しうる“機構”があるのではないか?と先生は疑っているようなのだ。文中に何度も登場する『ファリック・ガール』という概念は、これを説明する為に用意されたものなんだろう(と私は思った)

 本書で先生は、萌えキャラが誕生していく歴史のなかで戦闘美少女が多いことを指摘したり、宮崎駿監督関連の逸話なども引用したりして、『ファリック・ガール』に該当するようなキャラが“脳内補完におあつらえ向きなセクシャリティを牽引”し、“アニメそのもののリアリティも牽引されやすくなる”と主張しているようだった。オタク達がキャラ萌えするうえで鍵となるべき『ファリック・ガール』とは、どんなセクシャリティ牽引機構か?文中の“空虚なペニスを持った少女”とかなんとかいった小難しい事を出来る限り避けてまとめてみようと思って以下を作ってみましたが、失敗しました。出来が悪くてごめんなさい


 {シロクマが読んだところの、ファリック・ガールってこんな特徴}

彼女達にはトラウマ・外傷が無く、故に外傷の回復・外傷の反復など無い。
  先生によれば、これはリアリティのある女性像から遠い、という事になる。

・上記のような性質を持つ以上、媒体としての彼女は実体性の無い(乏しい、と
 書こうと思ったが、無い、と書いたほうが誤読じゃなさそうな予感)ものとなる。

・だがしかし、空虚な彼女たちだからこそ、逆説的にリアリティを発生させる
 (想像界で、のリアリティ。別に現実世界とイコールでなくても並立可)

・何で逆説的にリアリティを発生させるか?彼女達の存在そのものがファルス
 『ペニスの象徴=ペニスの欠如』だからという事になる。→空虚なペニスを
 持つ少女、としてのファリック・ガールってのもここに繋がるっぽい。

 ・そのうえで、すごいパワーの戦闘(リアリティ)に魅了され、オタはそれを
  エロスと混同することで“萌え”が生起される。戦闘が無ければ、どうも
  不十分みたいなのでベルダンディとかは駄目っぽい。

 ・ホントにこれでいいのかなぁ。ファルスについての説明が無くてすまん。

 ・ちなみに、例として挙げられていたのはナウシカや綾波レイでした※4


 この、“ファリック・ガールという装置によって萌えがオタク達の中に生起する”という仮説については、ある程度オタクをやっている人間なら誰もが気づき得る怪しい部分があり、以降の私のテキストでは留保の姿勢をとらせて頂くこうと思う(詳しくはこちら→)。だが、萌えキャラそのものに萌えを牽引する構造を見出そうとした試みとしては、興味深い試みだと思った。また、先生は自己愛の問題についてもファリック・ガールに関連して触れている。この事にも、いずれ注目しなければならないかもしれない。

 『データベース消費』という観点にだけ拘っていると、萌えキャラに備わっている諸特徴のなかに萌えを牽引する特異的なものがあるのではないかと疑う姿勢をついつい忘れてしまいそうになるが、そこらに焦点を当てて分析していこうという本書の姿勢は、これはこれで貴重なものだと私は推定している。オタク側(この場合は特に男性オタク)が持っている特性(精神病理)を踏まえたうえで、どんなキャラ&メディアが“萌え”を焚きつけやすいのかを考えぬこうとした一連の手続きは、『データベース消費』のやり方とは一線を画している。ラカンの精神分析を援用している為、悔しいほどに難解で難解で難解だが、十分ラカンを解っている人なら、きっと私よりずっと面白く腑に落ちて読めるんだとと思う。我こそと思うオタクの方やサブカルな方は、是非チャレンジしてみてください。

 このほか、『戦闘美少女の精神分析』には、漫画・アニメにおける間主観的な時間と空間の流れについての解釈や、メディアにおいて描かれる女というものについての解釈など、きわどいけれども面白い提言が盛りだくさんである。例えば、「意味のレベルにおいては複数の想像的現実が顕在化しうる」、という指摘は、オタクの(統御された)多重見当識という言葉と対になって、脳内補完はしてもリアル世界との混同は決して起こさないオタク達の萌えの有り様を実によく現した言葉だと思う。或いは“心の棚”“二次元フォルダ”といったオタク界隈のテクニカルタームとも相性が良い。さらに、ハイ・コンテキストだのポリフォニー空間だのリアリティだのに関する言説は、(勿論イコールではないにせよ)東浩紀氏の『データベース消費』や古典的な『キャラ属性による萌えの選択』といった考えに相通ずる所があるように見える。萌え、というテーマに必ずしも特化した本ではないし、100%の理解が極めて困難な本だが、読める範囲で読むだけでも十分に唸らされること請け合いなので、萌えを知りたい人は読んでみるといいと思う。少なくとも、オタクの営みに神経症的防衛機制、それも異性の問題に関係した防衛機制が看取できるという着眼を私は極めて気にしているし、全面的に支持している。ファリック・ガールはちょっと置いておくとしても、私はこの本に書かれた多くの視点を参照にしながらテキストを書いていくことになるだろう。



 ・総括

 以上、萌えに関してこれまで言われてきた、三つの主要な考えに対してのレビューを試みた。私の情報収集力や読解力の乏しさ、ラカンやポストモダンへの理解の至らなさゆえに底の浅いレビューとの誹りは免れまい。特に、同業者でありながら『戦闘美少女の精神分析』を易しく&十分にレビュー出来ていないのは、ホントに自分が情けない限りである。しかし、これら三つの考えに関して私がまとめられるものとしては、2005年現在、これ以上のものは呈示出来ないだろう。このレベルのレビューに不満足の人は、素直に原著を当たって頂くか、グーグル使って気合いの入った比較論を探して見て欲しい(探してみました。結果:→wikiに捕まる)

 これら三つの考え、特に後者二つの考え方は、一般的には相似よりも相違が強調されるのかもしれない(立場上、それは仕方ない事でしょうね)。そして、互いの論の問題点について指摘しあってしまって、アラ探しの様相を呈しやすいかもしれない。しかし論を発表する当事者達はともかく、その収穫品を御馳走になる私としては、相違よりも相似にこそ着目したいと思っている。違う立場・時代の意見において、相似が認められる部分に関しては、ある程度信頼してみてもいいのではないだろうか。一つの社会現象や人間行動を説明するにあたって、一つの考えで全てを言い尽くすのはどだい無茶なんだし。


 ・Limitation

 1.シロクマ自身の読解力・まとめの力の不足。
 2.ポストモダン及びラカン(これもポストモダンだ!)についての理解不足
 3.東浩紀氏と斉藤環先生のその後のテキスト・ネット上の活動を十分見てない
 3.データベース論に関して:シミュラークルを形成する側(オタ)に関する記載の不備。まさにこの点を斉藤先生が補ってくれる、と思っているのだが…。
 4.戦闘美少女の精神分析に関して:現在の萌えの状況&オタを無視したキャラ選択による、ファリック・ガール。東氏との議論が世代論的様相を帯びるのもなんかわからなくもない。

  そのほか色々あるとは思います。
  やっぱり原著を読んで、あなたなりに問題点を抽出してください。


 ☆とても至らなくてすみませんでした。☆





 【※1異性キャラクターが“属性”の集合体】

 この最も端的な例として挙げられるのが、ブロッコリーのマスコット・でじこである。このキャラクターは喜劇的なまでに萌え属性が集まって設計され、しかもスタンダードな属性だけでほぼ構成されている点が凄かった。でじこは、オタク達に自分達の属性萌えの皮肉となった点がウケたのか、かなりの人気を博していた(そういや、でじこのアニメもオタクと秋葉原に関して結構な量のスパイスが効いていましたね。おいしかったけど)。でじこのように、コピーアンドペースト可能な属性だけで殆ど創られたキャラは、一時期のギャルゲーにはかなり見受けられていたと思う。ときめきメモリアルやサクラ大戦、センチメンタルグラフィティのキャラ達は、“属性解剖”によってほぼ完全にキャラクター構成因子を切り取る事が出来る。そういやシスプリも、属性解剖によってバラす事の出来る属性が、それこそチョコレートパフェのように盛られていましたね。

 しかし、このような属性解剖を行って抽出した属性を、キャラという名の紙粘土にただコピーアンドペーストしただけで理想的なキャラが生まれるかというと、そうではなかったのが萌えの歴史である。属性解剖によって得られる“メイド”だの“ボク女”だの“妹”だの「だけ」では駄目で、プラスαが必要のようなのだ。属性解剖出来るような属性は今日日の萌えゲーや萌えアニメには山盛りなのが常なので、シスプリも、月姫も、君が望む永遠も、人気属性を列挙しただけで勝利したとはとても思えない。マーケティングなり、“属性を超えたデータベース”なり、或いはそのいずれにも属さない何かなり、ともかくも何かプラスαがあった可能性は、記憶に留めておいて頂きたい。でじこだって、コゲどんぼ先生の美麗な絵が無かったら果たしてあそこまで売れていたかどうか…。この手の、属性だのデータベースだのでぶった斬ってしまって本当にいいのか躊躇われるものがキャラクターという紙粘土から抽出されることに、私は戸惑いを覚えることがある。

 参考:萌えの歴史年表・私家版β







 【※2アプローチが為されている】

 神経症圏、という言葉は馴染みが無いかもしれない。これは精神科医同士の会話でよく使われている言葉で、N圏、と略される事も多い。少なくともある時期(男根期)まで正常な心理的発達をしてきた者全般が含まれる。逆に言うと、神経症という病態においては、男根期までは原則的に正常な心理的発達が為されていたとみなされており、男根期までの心理的発達が概ねクリアされている非神経症者(=正常で、神経症症状も来していない人)と同レベルの葛藤や防衛機制が観察されると考えられている。言い換えれば、「神経症者の症状は原則として、全く健康な非神経症者の葛藤や防衛機制と共通した基盤のもとに成立している」と言えばいいだろうか。

 対照的に、精神病圏や人格障害圏の場合においては、その手前の時点で心理的発達が阻害されたか為し得なかったが為に、通常の防衛機制や神経症者の防衛機制とは違ったレベルの葛藤・防衛機制が展開される、とされている。このため、オタク内部に発生している葛藤や防衛機制を精神医学の視点で論じる限りは、神経症圏、という病態水準(レベル・次元)でそれらを考察していこうとするのは間違っていない思う。少なくとも、精神病圏や人格障害圏のそれを引っ張ってきて理解しようとするよりは適切だと思う。また、強迫神経症に関しては男根期の手前の肛門期に問題があるという例外や、精神病圏や人格障害圏でも神経症圏と同レベルの防衛機制が出てきてもおかしくない(ただし逆に、神経症圏の者が精神病圏や人格障害圏と同レベルの蒼古的な防衛機制を呈する事は無い!とされている)事も一応断っておこう。

 なお、精神分析と一言で言っても色々あるし、それぞれについての理解の浅い深いもまちまちである。斉藤先生が援用しているラカンの理論に基づく議論は、同じ精神科医でも頭の悪くて精神分析に関する研鑽も不十分な私は今でも十分に理解しきれていない。このレビューでもラカンに関する不理解が私の足枷となっている。『構造と力』などを読んでも、ラカン関連テキストを見ても、どうにもラカンは受け付けない。私の頭が悪いせいと、進化生物学から呈示される精神分析理論の一部に対する問題提起が原因だろうか?

 後述するファルス、という概念について私が注釈を与えきれなかったのも、私がこれを理解(または納得して理解)していないからだと思う。理論として難しいばかりでなく、ファルスという概念の背景にある精神分析の幾つかの考え方に対して、いつになっても違和感を感じるのだ。しかも進化生物学から得られる知見が、その違和感をブーストしまくってくれている。これら個人的事情もあって、『戦闘美少女の精神分析』第六章は、本来私にレビューし得るものではなかったのだろう。私のレベルも情熱も納得も低すぎる。





 【※3オタクの精神病理】

 精神病理という言葉は精神科医が好んで用いる用語だが、精神病理≒精神的傾向、と(とりあえずでは)捉えて貰えばいいような気がする。斉藤環先生は、『戦闘美少女の精神分析』のなかでこう書いている。

 “ある集団に共通して想定されるような、特異な心性に対する仮称だ。これはまた、「心理」や「精神構造」の語を使わないための方便でもある。わかりにくい事を承知で、これをいっそう厳密に言い換えてみる。ここで述べる「精神病理」なるものは、「主体を媒介するもの」の志向性を指している。つまり問題はまたしても「メディア」なのである。

 メディアという視点への回収を意図した最後の一文に若干私は抵抗があるものの、そこも含めて首肯出来る人も結構いるかもしれない。少なくとも、それ以外のセンテンスについては(オタクの精神病理、と言った時の精神病理の意味としては)私にも納得し得るものに見えた。

 ただし、上の説明を私が首肯出来る(多分他の精神科医も概ね肯定しそう)という事と、それが非精神科医に誤解を与えにくい説明なのかはまた別だとも思う。確かに「心理」「精神構造」という言葉と「精神病理」という言葉の指し示す範囲は異なると私は感じるが、このような了解が非精神科医・非臨床心理士にどこまで伝わるのか…。“つまり問題はまたしても「メディア」なのである”というくだりも、人によって受け取りかたがまちまちになりそうな怖い表現のように思える。先生の表現は洗練されているが、この表現が非精神科医にどんな形で受け止められるのか。楽観していいのか、悲観すべきなのかは私には分からなかった。

 「精神病理、という言葉に精神科医達がどのような意味を託しているのか」をいかに非精神科医達に伝えるのか?この微妙なニュアンスの言葉をどう理解して貰うのか?これだけでも論文が書けちゃいそうな大きなテーマにはこれ以上関わるのはやめておき、当サイトとしては、

 オタクの精神病理という場合の“精神病理”オタクという社会文化的集団が持つ精神的傾向のなかでも、非オタクには多く認められずオタクには特異的に多く認められるもの。精神疾患と関連があるか否か・善悪・優劣は問わない

 という安直な近似式を呈示しておくことにする。この近似式は、精神病理という言葉が精神科医内で流通している時のニュアンスを伝えきるには不十分すぎる。だが、非精神科医が当サイト内で「オタクの精神病理」という言葉に遭遇した時には、そこそこ役立つ近似的翻訳だと思って提案する。




 【※4ナウシカや綾波レイでした。】

 惣流アスカ・神尾観鈴・草薙素子などをシカトされた気分になってムッとした人もいるかもしれないがここではグッと堪えて頂きたい。ファリック・ガールに該当しないキャラ(ことに、トラウマを抱えているキャラ)が人気を集めている点を指摘する人はいる筈だし、私もこの点を無視する事は出来ないでいる。後続の補足テキストでは、この問題についてコメントする予定。第一綾波レイだって、エヴァちゃんと見ている人なら分かると思うが、ファリック・ガールに該当しない部分を幾らか持っているわけだし。テレビ版はファリック・ガールからは遠い存在だったし、映画版ではむしろファリック・マザーに近い印象すらあったように思える…。