宇宙への思い

「おわりに」に代えて

 もともと「宇宙を知りたい」が放送大学に入るきっかけでしたが、数式に翻弄されたことから「数学の猫踏んじゃった」に足を踏み入れここまで来ました。定規を引きコンパスを回しているうちに、いつの間にか「径と弧の考察」に移り、そこから「波の種」が出て来たことは僕にとっても驚きでした。ここまでくれば頭の中は宇宙のことで一杯です。もっと勉強して宇宙のことを知りたいという思いと、自分なりに考えたいという思いが交差してきました。物事の起源には、何だって原因があるはずです。現在では自然研究は宇宙大となって、アインシュタインの相対性理論から、何と思いもよらない「宇宙の誕生」と言うロマンが生まれました。今ではその誕生から何億分の1秒のところまで追跡は迫っていて、まさにロマンを科学にしようとして懸命の努力が払われています。実はこのことはアインシュタインの遺産なのです。彼は自分が導き出した相対論から、定まりのない、伸びたり縮んだりする宇宙が出てきたとき大変戸惑いました。フリードマンがアインシュタインの宇宙方程式から三つの解を出したことには、もう仰天するばかりでした。彼の「神はサイコロ遊びをしない」と言った言葉は有名ですが、その後、「宇宙項」なるものを出したり引っ込めたりと戸惑いの連続でした。ハッブルが膨張宇宙を発見し、相対的宇宙を認めざるを得なくなっても彼はそのことに心の底からは納得しませんでした。

 それ以後の彼はほとんどを自室に篭って、ただひたすらに「統一理論」(自然の秩序を保証する絶対的なるもの)の研究に没頭しました。なぜなら、ニュートン的絶対(絶対空間・絶対時間)を見失った相対的な自然世界の規則正しさの根拠はどこも見当たらないからです。 現在では、さらに1兆分の1に近づくために、セルンの加速器を数倍も上回る加速器の建設が予定されています。僕は僕なりの宇宙の勉強をはじめてもう数年になります。研究室もなく観測機器もなく、ただ放送授業とテキストが頼りですが、科学研究の驚異的な進歩にただただ敬服しているところです。現在では137億年彼方の宇宙の果ての探索が、何と微小の粒子クォークをさらに分割する極微の世界とつながっていると言うのです。その先の先の先に、何があるのでしょうか。観測機器を精密化し、理論を積み上げていけば、究極的な、もうそれ以上は考えられない、これこそが「世界の種」と言えるものが見つかるのでしょうか。この場所での唯一つの頼みは、「極大の世界が伸び縮みすることは仕方がないとしても、億分の1のところでは伸び縮みしてくれるな。」と言うことです。

 「猫踏んじゃった」から導き出された経度法を「中心座標」と名づけましたが、ここでは波の広がりが飛び飛びであったり整数倍であったりとミクロの振る舞いが見られます。もしかするとデカルト座標で描ける世界はマクロの振る舞いをしていると考えてよいのかもしれません。すると自然には中心があるということになります。さらに言えば宇宙には中心があると考えてもよいのではないか。そしてミクロの振る舞いが見られる領域、望遠鏡で観測できる範囲を宇宙の中心と決めてよいのではないか。そして川が流れて海に辿り着くように、中心から放射される波は、宇宙の彼方の彼方その彼方の「エントロピーの海」に流れ込んでいるのではないか。こんなことはメルヘンの世界でしかないかもしれません。しかし僕の宇宙は勉強に従ってどんどん広がって行くのです。

 とこんな風に、僕は僕なりに今考えていることを書き留めて行けば、勉強が進むに従ってそれを修正したり書き加えたりすることができるのではないかと考えました。素人のくせに生意気だと言われればそれまでですが、21世紀の現在、これだけの学問が出そろっているのです。先人の努力に感謝しながら学んで行けば、放送大学ならこんな楽しみも許してくれるのではないかと、自分なりに自分に対して許可状を出しております。次の選択科目の「解析入門」の次は「電磁気学」「熱力学」「量子論」を考えています。あるいは化学や生物学も修めなければならないかもしれません。今のところ、「余白」(-a)こそ、宇宙の秘密を握る鍵だと考えています。この年になってますます楽しみが増えてきました。

 

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