玉井彰の一言 2006年8月 四国の星ホーム一言目次前月翌月

2006/8/31(木) 時期尚早、「東京オリンピック」

2016年五輪、国内候補地は東京。「予選」は突破したが、「本戦」は無理というのが一般的な見方でしょう。地域バランスとしては南米でしょうし、ヨーロッパ、アメリカの有力都市に勝つための戦略がありそうにも見えません。

石原慎太郎氏の個人的な名誉心の産物としての「東京オリンピック」。「お山の大将知事・石原」が「お山の大将都市・東京」で花火を揚げたいという程度の企画にしか見えません。JOC選考委員の見識のなさに助けられただけということです。日本が外交に強ければ別ですが、万一開催都市になった場合、裏で相当ボラれたと考えておくべきでしょう。

曲がりなりにも政治が「地方分権」を掲げているのなら、地方開催が筋でしょう。敢えて「東京」でやるのなら、「アジアの首都、世界の首都」というくらいの意気込みで明確なビジョンの提示が必要だと思います。高度成長時代の大きな目標として皆が頑張れた東京オリンピックと、今回提案されている「東京オリンピック」では、意義も違うし、国民の関心も全く違うと思われます。 

真剣に「東京オリンピック」を考えるなら、都市基盤整備と歩調を合わせた都市ビジョンの提示が必要であり、準備期間も15年〜20年は必要だと思われます。真面目な知事なら、次期知事が「五輪立候補」できる基盤整備を考えるでしょう。「2016年」では、泥縄オリンピックになります。石原氏がまだ生きているだろう、というだけの意味しかありません。時期尚早の愚策。

勝ってなお、敗者・福岡市を批判する大人げない石原氏。「祐ちゃん、マー君」達、戦った後の高校球児の爽やかさとは対局にあります。この厚顔無恥都政を都民がどうにかしなければ、オリンピック云々どころか、都市としての品格を疑われます。ノーモア・石原!。


2006/8/30(水) 個人の弱さの反映としての日本型ファシズム

「いつか来た道」に再び突き進んでいくのではないか。これが日本の軍国主義化ないしはファシズムを懸念する人たちの抱く破局のイメージです。もちろん、そういう筋道もあり得ます。しかしそれ以上に、別の形の破局があり得ると想定しておいた方がいいと思います。

別の形の破局とは、一見平和で何事もなく社会生活が営まれているけれども、「タブー」が多くなり、発言を自粛せざるを得ない領域が拡大し、実質的な言論の自由が失われるとともに、社会の活力全体が失われていくという意味での破局です。破局というより顕著な衰退というべきかもしれません。

私が「日本型ファシズム」だと考えているのは、国家が個人の意思を集約して自己決定していくのではなく、個々人が「意思」を喪失し、あるいは沈黙することにより、国民の想定しない方向に国家が突き進んでいく(暴走する)事態です。国家の暴走を制止するシステムが機能しない状況が、その前提として出来上がります。

日本型ファシズムとは、個々人の弱さの反映です。いかつい軍国主義の形態を取ったとしても、内実は貧相です。構成員たる個々人は、事態を苦々しく思いながらも「仕方がない」「仕方がなかった」という合い言葉で、自己を免責します。

民主主義の基盤である健全な個人主義が形成されていない日本社会における特殊現象としての日本型ファシズム。完成しつつあると考えます。それを象徴的に表しているのが、「安倍へ安倍へ」の流れを加速させている自民党の現状です。与党国会議員の大多数が「自己」を持たなくなったということの意味を考えてみる必要があります。

個々人が自己の所属する社会生活の領域できちんとものを言う。おかしいと思うことについては見過ごさない。そういうことの積み重ねの中で、社会が個々人の意思によって動いているのだという実感がつかめる状態にしておくべきです。

「日本型ファシズム」という病に罹らないための「特効薬」は、個々人の勇気、健全な個人主義の確立です。そして、個人の勇気に立脚する政党の存在が、国家暴走の「防波堤」になります。


2006/8/29(火) ファシズムとは何か

ファシズムとは何かと聞かれれば、とりあえず「民族主義・右翼全体主義の思想を背景とした軍国主義の国家体制」という解答することになるのでしょうか。ファシズムの定義は難しいようです。

ファシズムの特徴から入ってみたいと思います。それは以下の通り(ウィキペディア参照)。

(1)強力で、継続するナショナリズム(国家主義) 
(2)人権無視 
(3)世論・国民統一のために敵や身代わりをでっちあげる 
(4)軍事的支配(具体的には予算の軍事優先配分) 
(5)マッチョ 
(6)マスコミへの支配 
(7)国家安全保障への異常なまでの執着 
(8)宗教と政府が癒着 
(9)企業優先、民衆軽視 
(10)労働組合活動の抑制 
(11)知識人・芸術家抑圧 
(12)罪と罰への執着(具体的には警察強化) 
(13)縁故主義と堕落 
(14)不正選挙の執行と結果の正当化 

今の日本はどうかと問えば、「そこまでは行ってないんじゃないか。言論の自由もあるし…」と言われる方が圧倒的でしょう。

しかし、(1)については「反・反日」(3)「北朝鮮」(6)「郵政選挙」(7)「安倍晋三氏」(8)「公明党をどう見るか」(9)「超低金利による銀行救済」(12)「異常犯罪への世論」についてはどうか。また、(2)については、ビラ配りについての異常な取り締まり。(10)についても、最高裁の判例は労働側に不利な状況が続いています。(13)については、二世三世の闊歩する政界をどうみるかが問題になります。

(4)(5)(11)(14)については、そうではないのかなというところです。しかし、先般の加藤紘一氏自宅放火事件に対する与党側の反応の鈍さには異常なものを感じます。昨日小泉総理は、「暴力で言論を封ずるのは決して許されることではない。こういう点については厳に我々も注意しなければならない。戒めていかなければならない問題だ。」と語っていますが、これも記者団に質問されてのもの。政府が真っ先に「テロと戦う」との声明を出すべきであったと思われますが、そういう動きはありませんでした。

与党政治家の自己保身ぶりを見ると、言論に対する攻撃に対して身を挺してこれを守る気概はなさそうです。こういう風にみると、かなり危ない段階にいると判定できます。

我々が明確に意識しておかなければならないのは、「日本型ファシズム」です。これは、ヨーロッパのファシズムとは違い、「集団的無責任体制」です。戦争責任を追及しようとしても、「大体この連中だろう」というところまでは絞り込めますが、「ヒトラー」「ムッソリーニ」はいないのです。「誰も止められなかった」というのが真相だったという情けない軍国主義、これが日本型ファシズムです。そしてそれが、組織と個人の自己保身の心情(勇気の欠如)に支えられていました。

「安倍へ安倍へ」という自民党政治家の雪崩現象は、「自己」を持たない二世三世政治家の「群集心理」如何では、この国がとんでもない方向に行く可能性を秘めていることを示しています。今の自民党に国家の行く末に責任を持とうと考える人物がいないこと、報道機関に勇気がないこと、無責任な民族主義的雰囲気が蔓延していることを考えると、「日本型ファシズム」がかなりの程度完成していると見た方がいいと思います。


2006/8/28(月) 10年務まる外務大臣が欲しい

我が国の外交面での存在感のなさには、顕著なものがあります。これまでの外交官の仕事がワインの品定めと日本の政治家の接待に傾き、戦略的な外交を行う態勢になっていないことが原因の1つです。

外務省の歴史には、致命的な汚点があります。それは、日米開戦時に最後通牒の提出を真珠湾攻撃よりも遅らせてしまった外交官がその後出世し、最高位にまで上り詰めたことです。このような組織に、国家のために命懸けで働くことを期待するのが土台無理な話です。先般イラクで亡くなった方々は、希有な事例として讃えられるべきです。

これまで外交戦略が欠如していた我が国が、世界の平和と自国の安全とを確保するためにどのような外交を展開すべきかを真剣に考えておかなければならない時代に入りました。ロシア国境警備隊に漁民が銃撃されてから泥縄式に対応するというようなことではどうにもなりません。国境と漁業に関する日常的な対話はどうなっていたのか、首を傾げる話です。

日本外交の質を上げ、世界における我が国の存在感を高めるためには、外務省の組織を抜本的に改革すること(組織の解体を含めて)と併せて、10年務まる外務大臣を置くことが必要だと考えます。日本の外務大臣が国連で演説する。議場満席。これを聞き逃すまいと固唾を飲んで諸外国の外交官が聞き入る。「平和の伝道師」と異名を取る日本の外務大臣に諸外国の要人が一目置き、話を聞く。「夢」と言わずに実現したいものです。そういう人物を政党が5年10年掛けて育成すべきです。

「後世に名を残すには、総理大臣より外務大臣だ」と言われるくらいの地位として外務大臣が認知されるようになれば政治は変わります。民主党には、総理候補よりも外務大臣候補をしっかり固めて政権交代に臨んでもらいたいと思います。「ネクスト外務大臣」がいることは知っていますが、誰が代表になってもこの人事は替えないという党内コンセンサスが必要です。

外務大臣(外務省)が優れていれば、「日本国憲法」は充分活用可能です。日本国憲法を活用した戦略的平和外交ができないために、貧困な発想としての「改憲論」が生まれるのではないでしょうか。外交は人物に左右されます。「護憲」を叫ぶ政党が、世界に通用する人物を養成できているのか。この点も問うてみたいところです。


2006/8/27(日) 「軽自動車型自治」を!

軽自動車の売れ行きが好調なようです。ガソリンの値上げが追い打ちを掛けています。車を移動手段と割り切れば、低燃費で低価格・低維持費の軽自動車で充分であり、軽自動車自体の性能・機能も年々進化しているので、軽自動車が主流になってきてもおかしくはありません。

ところが、地方自治の世界では「大型化」が進行しています。地方自治の世界では、「大型車」=大規模自治体の方が「低燃費」だと信じられています。「軽自動車」=小規模自治体は「穀潰し」だから潰してしまえ、というのが平成の市町村合併です。

現実を直視すると、小規模自治体の住民1人あたりの自治の費用は大きくなっています。俗耳に入りやすい言い方をすれば、小さな自治体でも首長等の特別職は必要だし、議会・議員も必要なので、これらを省くだけでも経費節減が可能…

この議論が説得力を持つ根拠は、地方自治法にあります。地方自治法が自治体の機構や自治のあり方を細かく規制し、どうしても費用が掛かってしまうように誘導しています。そして市町村は、基本的にオールラウンドプレーヤーとして住民へのサービスが期待されています。

「過大な積載重量」に自治が耐えかねているという実態があって、市町村合併が促進されたという面があります。ここを変革し、「積載重量」を軽減すれば、低燃費で小回りの利く自治が可能であると考えます。

発想を根本的に変え、住民が自治体に委ねる事務の範囲を決めればいいのです。教育と環境に限定された自治があってもいいのではないでしょうか。これを認めず、手続き面で重い負担を課しているのが地方自治法です。株式会社の取締役会と株主総会のようにはいかないとしても、かなりの手続き簡略化は可能です。大昔の田舎の自治体のように、学校の空き教室を「議場」にしてもいいでしょうし、議事手続きも「厳格なミーティング」でいいと割り切れば、経費は大幅に削減可能です。首長も議員もボランティア、職員も基幹職員を限定し、パート職員で基本的事務をまかない、専門的事務についての外部委託(「県」に委託したり、民間企業に委託したりする)も大胆に行えばいいのです。

「地方自治規制法」である地方自治法や関連法規を大幅に見直せば、軽自動車型の快適な自治が実現できます。「大きいことはいいことだ」という前世紀の遺物的発想を克服する必要があります。


2006/8/26(土) 冥王星の「落選」

国際天文学連合(IAU)が惑星の定義を整理し、冥王星が「惑星」の定義に当てはまらなくなったため、太陽系の惑星は水星から海王星までの8つになりました。 

惑星でなくなっても、冥王星は冥王星であり、我々の認識とは無関係に太陽のまわりを廻り続けます。人間世界での概念・観念の問題であり、宇宙の実在とは無縁の話ではあります。

しかし考えてみると、従来教科書に載り「水金地火木土天海冥」と覚えることが一般だったものが、「水金地火木土天海」になってしまうことで、この星がいずれ多くの人から忘れ去られることが確実になったということは言えると思います。

時の流れと共に忘れ去られるものや事柄があります。例えば戦争体験。戦争体験なき世代が主流となりつつある自民党は、三代目の危ない政治家、安倍晋三氏に雪崩を打って結集しつつあります。政治理念や政策などは忘れ去られました。辛い戦争体験をした親父世代にはあった平和への思いも、ものの見事になくなってしまいました。「反・反日」という、酒場での喧嘩の売り買いのような激情しか内包しない軽薄な政治が横行する気配です。

我ら冥王星世代。この星を忘れないようにしたいものです。そして、この時代にあった平和がかき消されないように、目配りを怠らないようにしたいものです。

ところで、アメリカ人が発見したと言われる冥王星。「冥王星の落選」をアメリカ人は残念がっているようです。が、アメリカでは惑星をどうやって暗記しているのでしょうか。「水金地火木…」という覚え方はないでしょう。とすると、多くのアメリカ人は、惑星を全部言えないのではないでしょうか。アメリカの場合、今まで知らなかった惑星を覚えるのが先決かも…


2006/8/25(金) 所得税・住民税半減という、小沢代表の基本政策案

読売新聞のスクープなのか。「みのもんたの朝ズバッ!」に出演した菅直人・民主党代表代行は、「聞いていない」とのコメント。

記事によれば、民主党・小沢代表が9月の代表選で示す基本政策案は、概略以下の通り。

◎民主党が目指す国家像。「共生」を理念に、「公正な国」の実現。

◎日本にふさわしいセーフティーネットを確立するため、雇用政策や農政を重点政策に据える。

◎雇用政策。終身雇用制を維持し、定年を65歳に延長。農政では、「食料自給率100%」を目標に、各農家に対する所得補償制度を創設。

◎税制。所得税・住民税を現行の半分に引き下げる大規模減税。消費税の福祉目的税化。

△所得税・住民税を「現行の半分に引き下げる」との目標を掲げたのは、「国民の消費支出の増大、日本経済の持続的な安定成長を図る」のが狙い。所得税は税率を現行の「10、20、30、37%」の4段階から「5、10、20%」の3段階に簡素化して引き下げ、名前を「収入税」に改める。

○所得税の諸控除を廃止する代わりに、「子ども手当」の創設を盛り込む。第1子に月額2万円、第2子に同4万円、第3子に同6万円を支給するとし、少子化対策に配慮。

◎外交。国連の要請に基づき、国連の平和活動に積極的に参加する。アジアの一員として、中国、韓国をはじめ、アジア諸国との信頼関係の構築に力を入れる。


(コメント)

読売新聞の記事では地方主権(地方分権)の記述がありませんが、政策の根幹に据えられることは確実です。何故これだけ大胆な減税が可能になるのか。理由の1つとして、地方主権型社会では、「国」の仕事が大幅に減少することが挙げられます。

小沢氏の構想では、「道州」などはなく、また「県」もなく、300程度の自治体が地方のことを決定することになります。「国」は「天下国家」のことをやるという、簡単明瞭な発想です。「廃県置藩」と言えばいいでしょうか。

「こんなことはできっこない」という批判が、自民党や御用マスコミによって展開されることは確実です。しかし、世界第2位のGDPをひっさげて現在の貧相な社会しかできないということは、政治の失敗です。

この根本的な失敗を覆い隠すことに全精力を注いでいるのが現政府であり、官僚システムであり、御用マスコミであると考えると、ものごとがはっきりと見えてきます。

戦前、全体主義化・軍国主義化していく日本の潮流を、石橋湛山は「大日本主義の幻想」と厳しく批判。「小日本主義」を唱え、植民地や軍備の放棄を訴えました。「大日本主義」は政治的・軍事的ヘゲモニーを偏重し、領土・資源などハード・パワーが国力だという発想であるのに対し、石橋の「小日本主義」は経済的・文化的ヘゲモニーがより重要であり、技術や人材といったソフト・パワーをいかに活用できるかが国の実力であるという考え方に立脚していました。

国の基本コンセプトが、敗戦により石橋の主張した通りに転換し、戦後の高度成長につながりました。現在の日本も、国の基本コンセプトを転換すべき時に来ています。と言うより、転換すべき時を大幅に過ぎています。

従来の発想に凝り固まって、国の衰退を看過するのかどうか。日本人の聡明さが試されています。


2006/8/24(木) フリーターの採用

日本経団連が会員企業などに実施した調査によると、8割近くの企業が若手社員が足りないと答えたにもかかわらず、フリーターを正社員に採用することには消極的な企業が大半だったと報じられています。「積極的に採用したい」が1.6%に対し、「採用しない」が24.3%、「経験、能力次第」が64.0%。「卒業後一定期間なら」というのが8.1%。

大手企業から見て、フリーター経験者は企業人として不適格という判断なのだろうと思われます。言われてみれば当然のような気がします。気ままな生活をしてきた人物を、企業人として鍛え直すのは大変です。会社が本気になって鍛えてやろうと考えても、「言い訳能力」だけが進化してきた者はすぐに「土俵を割る」だろうという推測なのでしょう。
 
底辺に近いところを彷徨った若者こそ、企業社会の一員として働き、安定した人生を営むことの意義を誰よりも分かっているはずなのですが、社会(企業)はそういう眼では見ないようです。

企業から見て「使えない」と見られているフリーター。確かに、一定期間緩い生活をしてしまうと、通常の社会生活が大変厳しいものに感じられるでしょう。このギャップを埋めるための仕組みづくりが必要です。

海外青年協力隊の国内版として、公務労働をボランティア的に経験する制度(最低賃金程度は保障)、企業研修制度(一定期間の研修)等、本人にとってはチャレンジの機会、企業にとっては人物評価の機会を増やすべきだと考えます。「中間的処遇」が必要な課題だと思われます。

「フリーター」を本人の問題として放置するには、問題が大きくなりすぎました。生涯低賃金で働く人が多くなりすぎることの社会的損失を真剣に考えるべき段階に入りました。

しかし、企業の考え方も古い。「純血主義」にやっと「能力主義」が入った程度の段階です。多様な価値観、多様な見方、多様な人生を取り入れてみようという発想にはまだまだなれないようです。「人事部の怠慢」と言ったら、叱られるでしょうか。


2006/8/23(水) 「憲法改正」で民主党は惨敗する?

「安倍政権」が、「憲法と教育」を公約の重点にするとの新聞記事がでています。来年の参院選を「衆参同日選挙」とし、憲法改正を争点として選挙が仕掛けられた場合、民主党は負けると覚悟しておいた方がいいと思います。

野党には、「護憲」へのこだわりの強い人が多く、憲法が争点となる選挙は四分五裂の状況になると予想されます。ここを中央突破すれば自民党大勝の流れができます。それには、前提があります。憲法改正に向けての世論誘導と公明党への根回しです。

世論誘導も可能であり、公明党取り込みも可能だと考えます。そのとき民主党はどうするか。このシミュレーションが必要です。昨年の総選挙で自民党が「郵政民営化、是か非か」と問い、「改革を止めるな」というスローガンを掲げました。これに対し民主党は「是か非か」の問いに正面から答えず、「日本をあきらめない」という焦点の合わないスローガンで対抗しました。このスローガンを見たとき、多くの民主党候補は負けを覚悟しました。この失敗を繰り返してはなりません。

野党側の認識として、「護憲」が今や業界用語であり、思考停止の原因になってしまっていることを確認しなければなりません。国民が「改憲」の方にプラスイメージを持つようになりつつあるとの前提で対応することが必要な時代になりました。

「景気回復」の「大本営発表」を何時までも続けるわけにはいきません。地方は疲弊しています。普通にやっていれば、来年の参院選は小沢民主党が勝ちます。そうだとすれば、自民党が仕掛けなければなりません。安倍氏の「清新」(?)なイメージを維持しつつ、「改憲」を「革新」「清新」の旗印として掲げて戦えば、仕掛けた側が勝つ確率が高いだろうと思われます。これをひっくり返す戦略・戦術が民主党になければなりません。

現在の自民党は、某宗教団体に基盤をおいたメディア支配型・ファシスト政党であるとの認識が必要です。これに対抗できるのは、健全な「保守」の論理であろうと考えます。「保守」の旗印として「護憲」を再構築する。「創憲」論も「護憲」に組み入れてしまうのです。「今は守ろう、日本国憲法」でいいのです。地方主権を明確に主張し、地方再生を訴える作業も必要です。

安倍讃辞の根拠となっている「岸信介」とは何か、「安倍晋太郎」とは何か、そして「安倍晋三型・ピリピリ保守」とは何なのかを分析し、その空疎かつ危険な内容を指摘し続けなければなりません。自民党の最大の弱点は「安倍晋三」なのです。

「民主党は、生活を守る保守政党です。故郷を守る保守政党です。憲法を守る保守政党です。自民党に替わる新たな保守政党です。昔の自民党はもうないのです。」ここまで言い切らなければ、「同日選挙」には勝てないと思います。民主党が「同日選挙」へのシフトを先行して敷けば、自民党内に「憲法改正時期尚早」との意見が出て、「決戦」に踏み切れなくなります。公明党も動揺します。

もはや「戦後」ではない、「戦前」である。この認識に立つべき時代に入りました。


(参照)
6月21日:「安倍晋三型・ピリピリ保守の時代
8月18日:「『8月15日』使用前・使用後・・世論の追随的賛成


2006/8/22(火) 熱闘甲子園・・「人生」に向けてのクールダウンを

今年の甲子園は面白すぎました。どうなるのか全く分からない熱戦が数多くありました。そして、「クールな剛腕」対「北の怪物」の決勝戦は、長く語り継がれるでしょう。

早実、駒大苫小牧の選手には、甲子園での活躍を宝としてこれからの長い人生を生きていってもらいたいものだと思います。熱狂から一歩距離を置き、これからの人生に向けてクールダウンすることが今後の課題であり、それをサポートするのが教育者の仕事になるでしょう。

かつての甲子園アイドルの中に、獄中にいる人もいるという記事を見ました。栄光の頂点に立つことは素晴らしいことです。しかし、挫折があるのも人生です。

将来を期待されている選手達には、野球人生で成功してもらいたいものです。仮に失敗しても、苦しかった練習を思い出して、人生の苦難に立ち向かっていただきたいと思います。苦難を乗り越えてきたことが、彼ら甲子園球児と全国の高校球児の真の財産なのですから。

最終局面で両エースが投打の対決。快速球に空振りして幕を閉じる。野球の面白さを満喫できました。しかし、仕事にならん・・


2006/8/21(月) 甲子園決勝再試合・・・あれから37年

延長15回裏一死満塁ノースリー。尿意が限界に達しているのに席を立てない。見る方も疲れ果てた松山商業・井上明、三沢・太田幸司の投手戦は延長18回、「0対0」の引き分け再試合となりました。井上232球、太田262球。

あれから37年。決勝戦15回引き分け再試合をテレビ観戦しました。早実・斎藤佑樹、駒大苫小牧・田中将大の投げ合いは見事でした。

松商・三沢の決勝戦があった1969年(昭和44年)に何があったか。東大闘争で東大入試は中止。安田講堂を占拠していた全共闘の学生と機動隊との攻防戦。アポロ11号・ア−ムストロング船長が人類初の月面着陸。佐藤政権、巨人9連覇中。アメリカ・ニクソン大統領就任。フランス・ドゴール大統領退陣。PLO議長にアラファト就任、当時40歳。リビアで青年将校・カダフィ(28歳)が王制を打倒して政権掌握・・

大ヒット曲「ブルーライトヨコハマ」とともに思い出される当時の世相と、翌年の大阪万博が提示した輝かしい未来。高校1年だった私は、遠い将来である21世紀には月面基地ができ、地球と月との定期便が運行されるものだと信じて疑いませんでした。

2006年、こんな未来がやってくるとは。月面着陸は嘘だという説まででてきました。中東情勢は緊迫の度を増しています。政治性にあふれ、社会問題に敏感だった諸先輩方は、真面目なサラリーマン人生を全うして定年を迎えようとしています。日本の政治は、シーラカンス・自民党が健在。この始末だけは付けて、後輩たちに希望の持てる日本を残したいものです。

さしあたり今日は、斉藤・田中両投手の踏ん張りに期待します。


(参考)「ブルーライトヨコハマ」
http://momo-mid.com/mu_title/i_blue_light_yokohama.htm


2006/8/20(日) 加藤紘一氏宅放火・・問答無用型思想勃興の兆し

全国紙の社説が加藤紘一氏自宅放火事件を取り上げているかどうかを調べてみました。現時点で、読売以外の各紙が取り上げています。

「加藤氏はこれからも靖国問題などで自分の考えを曲げず、活発な論戦を展開してほしい。民主主義社会は多様な言論が必要だからだ。」(産経)

「戦前、首相をはじめ政治家が次々にテロに倒れ、政党政治がつぶされていった。そうした暗い時代を二度と繰り返さないためにも、テロを追いつめ、許さないことが大切だ。」(朝日)

「政治・言論テロは未然に防止しない限り、事後にいくら厳しい処罰を加えても、テロを起こす側は目的を果たす結果になる。政治テロ事件にあっては、未然防止がとにかく重要である。」

「テロは『犯人の気持ちは分かる』とか『やむにやまれぬ動機だろう』とか、少しでも容認する空気が社会に生まれれば、それが増殖の温床になる。テロには社会全体で立ち向かわなければならない。」(以上、日経)

「憂うべきは、言論への批判を恐れる人々が、萎縮して沈黙する現状ではないだろうか。苛烈で容赦のないバッシングが目立つ折、過敏なまでに警戒心を強めているのだろう。孤立するのを避けようと少数派と自覚した人が発言を控えるため、結果的に多数派がことさら幅を利かせる『沈黙のらせん』と呼ばれる現象が進んでいるのかもしれない。いつの間にか言論の自由が狭められており、戦前に逆戻りしかねないようにさえ映る。

この間、加藤議員の発言が際立ったのも、他の参拝批判派の国会議員らが口をつぐんでいたのが一因だ。事件後、右翼陣営から『文化人らが過激な言辞を競い合うため、右翼は体を張るしかないと思い詰めている』といった声が出たことも、尋常ならざるムードの広がりを感じさせる。過失事故の責任者らに一方的な批判を浴びせたり、凶悪犯への厳刑をヒステリックに求める論調と通底するものがあるのかもしれない。一部メディアの報道姿勢や、匿名の無責任な意見をも拡散させるインターネットの影響も見逃せない。」

「振り返れば、政治家のスキャンダルを暴かれたくないと政府が先導し、個人情報保護法などを通じてメディア規制を画策しだしてから、言論を取り巻く環境が危うくなっている。改めて指摘するまでもなく、少数意見を尊重し、どこまでも話し合いで解決を目指すのが民主主義の要諦だ。原点に立ち返り、自由な言論を封じるかのような風潮は、暴力と同様に、一掃しなければならない。」(以上、毎日)

(コメント)

各紙社説の印象に残った部分を抜粋しました。各紙それぞれ、テロを許さないとの観点から加藤氏宅放火事件を重く受け止めています。毎日新聞の社説に共感を覚えたので、引用が長くなりました。

問答無用型の思想が戦前荒れ狂い、国の運命を誤りました。現在、偏狭な思想が再び勃興しつつある雰囲気を感じます。同じ過ちを繰り返してはなりません。そのためには、過去を振り返りつつ現在の特殊事情に光を当て、テロに至る筋道を解析して、テロの脅威で言論封殺が起こらない社会のシフトを構築しなければなりません。

人に危害が加えられなかったからといって、甘く見ていてはいけない深刻な事態だと思います。「蟻の穴から堤も崩れる」という言葉を銘記すべきです。


2006/8/19(土) 派閥政治から付和雷同政治(日本型ファシズム)へ

自民党の派閥が壊れています。元々、各地域で属人的な地盤を持つ政治家の集合体である自民党は、東西冷戦下で西側に位置しようとすれば必然的に自民党政権でなければならないという前提に立って、各政治家が党内でしのぎを削ってきた政党です。

党内は、財界や各種団体に顔が利き、集金能力のある人物を領袖=「総裁候補」として派閥を形成し、ポスト・利権・資金の分配を行ってきました。派閥間の合従連衡で総裁が決まり、派閥間の権力移動(総裁の交代)が疑似政権交代として、ときどきの有権者の不満を緩和する機能を持っていました。

自民党政権の長期化で、各地域の自民党政治家が引退する際の後継候補者をどうするかという問題を生じました。政治家を中心とする個人後援会の多くは、国の権力との結びつきを維持するために、これまで担いできた政治家の子女を後継者とする道を選びました。結果として自民党は、政治家の二世・三世が中核となる政党になってきました。二世・三世の政治家の後援会は、当初の属人的組織ではなく法人化し、政治家も「親分」というより上場企業のサラリーマン社長のような「機関」としての意味が強くなってきました。

小選挙区制度の導入は、党中央の力を強め、派閥の力を弱める方向に作用しました。各政治家は派閥に依存するより、候補者決定権を有する党中央との距離感を大切にするようになりました。この流れを決定づけたのが小泉政権でした。人事における派閥の無視、党に対する官邸優位の政治、そして極め付きは、昨年総選挙における郵政民営化に反対する自民党政治家への「刺客」騒動でした。

小選挙区の厳しい選挙を勝ち抜かなければならない自民党政治家は、この流れに敏感に反応し、派閥の枠組みを超越して、「選挙に勝てる総裁候補」に雪崩を打って馳せ参じる行動に出ました。これが今日的状況です。法人化・機関化した二世・三世の政治家の処世術としては、致し方のないところであると言えます。

巨視的に捉えると、派閥政治は自由主義的であり、ときの政権の横暴を抑止する機能がありました。永らく政権が維持されたことから、野党による牽制よりも派閥による抑止機能の方が現実政治に与える影響は大きいものがありました。

ところが現在、雪崩を打って有力候補になびいていく自民党には、権力の横暴を抑止する機能はありません。個々の政治家がポピュリズム(大衆迎合主義)によって自己の地位保全を図ることが精一杯という状況です。「民主的」と言えば聞こえがいいのですが、政治家としての矜持を失い、自己保身に明け暮れる、羊の群と化したサラリーマン政治家の危うさが露呈されています。

二世・三世の付和雷同的挙動は、「嘘も百回言えば本当になる」というナチスのゲッペルス的手法(=メディア支配による大衆のマインドコントロール)が小泉政権に採用されるに及び、ナチスの親衛隊的な様相を呈するに至っています。テレビによく出てペラペラしゃべる「安倍信者」が、「賛美歌」を歌い、「信仰書」を出版する動きは、権力者が最終責任を負わない日本型ファシズムへの導火線のような気がしてなりません。


2006/8/18(金) 「8月15日」使用前・使用後・・世論の追随的賛成

今年の「8月15日靖国参拝」において、事前の世論調査では、昭和天皇の発言メモの影響もあって、靖国参拝に反対の世論が支配的でした。ところが、昨年の郵政解散でもそうでしたが、パフォーマンス政治の妙というべきか、総理が断固として突進したために、後から世論が付いてくるという結果になりました。

かつては、新聞が反対している政治課題を行おうとすると、政権が大きなダメージを受ける結果になりました。しかし小泉政権では、総理が行動することで世論が化学変化を起こしてしまうようになりました。

活字メディアより映像メディアの方が大衆を動かしやすいということを熟知した作戦が取られるようになったということでしょう。この手法が安倍政権でも採用されると見ておいた方がいいと思います。

政治の世界が二世・三世花盛りの時代であることは知られています。それに加えて、メディアの世界も「裏口入学」が広がっています。取り分け映像メディアでは、有名人の子女が親の七光りで入社するパターンが顕著です。彼らは、人生の最初から「勝ち組」に所属しており、格差社会での「負け組」への共感はありません。そうしたメディア内部の変質が、権力批判・権力監視の精神を崩壊させる方向に作用しているのではないか。そのような眼で映像メディアを観察する必要があります。

ものごとを単純にしか考えない人物が、単純にしか語らないことが、映像メディアを利用した政治宣伝に適しているということも言えると思います。原理原則を延べ、例外についてもきめ細かく語って丁寧に説得していく言論ではなく、「これだ!これしかない!断固としてやる!」と訴える手法が映像メディアを通して流されると、それほど固定的でない意見の人は流されてしまうのだろうと思われます。

これはファシズム・ナチズムの手法です。自民党の延命は、変質したメディアを最大限利用し、単純な論理の繰り返しで大衆をマインドコントロールするやり方で行われることになるでしょう。これに対する「ワクチン」開発が必要です。


2006/8/17(木) 天下りはボランティアで

朝日新聞より。政府は15日、所管官庁から公益法人への再就職(天下り)を制限する対象を、これまでの「課長以上と退職後10年未満の職員」から「常勤職員として職務に従事した経験のあるすべて」に広げる「公益法人の設立許可及び指導監督基準」の一部改正を閣議決定しました。 

公益法人理事のうち、所管官庁出身者は3分の1以下に抑えなければならないため、新しい基準を上回る理事がいる約300の公益法人が、2年間の経過措置の間に、理事退職後の不補充などによる是正を迫られます。今年4月1日現在、6789法人に14万6039人の理事がいます。改正で規制の対象となる理事は、4185人から7751人に増えることになります。 

(コメント)

公益法人理事への天下り規制は不要であると考えます。公益法人理事は、ボランティアにすればいいだけです。交通費程度は実費負担してあげればいいでしょう。

ボランティアが嫌な人は、公務員を辞めなければいいし、定年まで頑張ればいいのです。公益法人の従業員として再就職することについては、他の従業員との公平性が確保されれば、認めてもいいのではないでしょうか。従業員を経て理事になる場合も、ボランティア。「ボランティア」名目の裏で不法な利益供与があった場合は、処罰規定を置いて規制すべきでしょう。

これからは、ボランティアの時代です。公務員を辞めて悠々自適の人なら、社会貢献を積極的に行うことが自己実現につながります。私が取締役をしているまちづくり会社は、定款で「取締役無報酬」を謳(うた)っています。経済産業省や国土交通省の人に来てもらえればありがたいと思います。

民間企業の役員や従業員になる場合は、出身官庁との取引に規制を設けるべきです。規制してくれた方が、民間企業は楽になるでしょう。穀潰しを雇わなくてもよくなるのですから。


2006/8/16(水) 「A級戦犯」から「敗戦責任者」へ

小泉総理の靖国参拝。昔、高倉健主演のヤクザ映画を見終わった若い男の観客が、肩を揺すらせて映画館を出て来るのがお定まりでした。それと同様の間抜けな光景を見てしまいました。中国・韓国は、一応の非難はしても、「バカは相手にしない」という感じになっています。

「首相の靖国参拝問題」には、「A級戦犯合祀」の問題がからみついており、問題を複雑にしています。ここらで、議論を分かりやすくするために、「A級戦犯」の問題は極東軍事裁判(東京裁判)の評価の問題として論ずるにとどめ、靖国問題においては国民に対して敗戦の責任を負う人物が合祀されていることをどう考えるかという議論に絞り込む方向に転じるべきだと思います。

国家存立のために戦って敗れた場合、戦争責任を外国が問うという姿勢を見せたとしても、時の政治指導者を国内的に弾劾することについては慎重でなければなりません。やむを得ざる戦いに敗れたことに対して、後になって非難することは人間としてどうかということにもなります。

とは言え、日中戦争から太平洋戦争にかけての我が国の軍部と政治指導者の不甲斐なさには、特筆すべきものがあります。日中戦争は何のために行われたのか不明であり、目的合理性が全くない戦争であったと思われます。

これに対し、太平洋戦争はアメリカに追いつめられてやむを得ず立ち上がった戦争であるとして美化する動きがあります。本当にそうでしょうか。ABCD包囲網が敷かれて石油等の資源が遮断され、最後通牒としての「ハル・ノート」が突きつけられたから云々という議論はいささか軽薄ではないでしょうか。その時点でも、引き返す方法はあったと思います。大陸に展開している陸軍を撤収することは、大変な国内問題を発生させたでしょうし、軍の反乱や要人暗殺が多発した可能性もあります。

しかしこの段階で勇気ある指導者が、国民に対し断固として、「アメリカと戦うことは自殺に等しい行為である。ここで矛を収め臥薪嘗胆することを提案する。申し訳ないがこれしかない。」と主張したらどうなったか。こうした難局を収めていくことこそが、政治指導者の存在意義ではないでしょうか。

そのような難事業を避け、自己保身と組織維持のために戦った戦争。それが太平洋戦争でした。勇気があったのは兵卒のみ。第二次大戦ソ連の英雄・ジューコフ元帥は、こう言ったそうです。「ドイツ軍は指揮官も兵も優秀である。日本軍は兵は優秀だが、指揮官は無能である。」

現場指揮官だけではなく、軍の最高指導部も無能であり、政治指導者も無能でした。負けると分かっていて、当座の自己保身のために国民を引きずり込んだ戦争。この戦争に対する敗戦の責任は明確にしなければなりません。

「A級戦犯」から「敗戦責任者」へ。靖国合祀問題は、ここが明確に意識されていなければなりません。政財界に自己保身病が蔓延し、合理的な国家意思形成ができなくなりつつあります。指導者の無能で、もう一度「一億総懺悔」型大失敗をしそうな最近の政治状況に鑑みると、過去形の問題ではないということを強調したいと思います。


2006/8/15(火) 「小人政治」の象徴、「8.15参拝」

「心の問題」だとして靖国参拝を強行する小泉総理。外国の反発に反発して、わざわざ8月15日に靖国参拝しようとする論理は、非行少年の非行の論理と同じです。

「先生は生徒に温かく接しなければならないのに、俺には冷たく接してきた。もっと俺の心を理解すべきなのに、冷たくする。だから、俺は非行に走ったんだ・・」

「外国の内政干渉は許せない。心の問題に介入することは許せない。もっと大らかに見守るべきなのに、批判を繰り返す。だから、8月15日だ・・」

要するに、規範が他人(他国)に向けられるだけで、自らには向かわないのです。「自分に優しい」と言えばいいのでしょうか。「自己愛の固まり」と言えばいいのでしょうか。こういう人物を総理大臣にした不明を、国民が恥じる日になってしまいました。

それにしても、小粒な政治になりました。外国の反発に反発する、小人政治。「安倍へ、安倍へ」と草木もなびく自民党。自己満足の総理と自己保身の議員達の狂想曲が流れる8月15日。

英霊たちに会わす顔なし。


2006/8/14(月) 和歌山県と市町村の事務一括処理

朝日新聞より。和歌山県と県内の全30市町村は、行政経費を大幅に削減するため、重複する庶務事務を共同で処理する「総務事務集中処理機構」(仮称)を設立する方針を決めました。給与の計算システムを共有したり、パソコンなどの物品を共同購入したりすることで、少なくとも初年度は11億円のコスト削減効果が見込めるとしています。県と各市町村が職員と費用を出し合い、2007年度中の機構設立を目指しています。 

行政事務の共同処理では、滞納されている市町村税の回収のために、県と市町村が共同で組織をつくっている例がありますが、庶務事務全般の一括処理は全国でも例がないようです。一括処理を提案した県の試算では、コスト削減効果は、財務会計・人事給与システムの統合で10億円以上、消耗品の契約単価引き下げで年間4000万円以上、エレベーターなど施設の保守管理業務の共同発注で年間3500万円以上などとなり、庶務事務担当職員も減るので、全市町村で少なくとも数十人分以上の人件費削減も見込めるといいます。 

(コメント)

画期的な試みです。将来的には、庶務以外の領域で共同事務が展開されるものと思われます。それも、NPOないしは株式会社が担当することが予見されます。さらに、「県」を越えたまとまりがあった方がより効率的であるということにもなってくるでしょう。

問題は道州制との関係。この流れを道州制に結びつけたいと考えるのが国の発想です。しかし私は、基礎自治体である市町村がより独自性を出すためにこそ、事務の共同化を進めるべきだと考えます。自治と直接関係のない経費を切り詰めていく。そうして捻出した原資を独自の政策実現のために振り当て、個性的な地域づくりを進めるべきです。国が考えている「中央集権強化のための道州制」「地方リストラの一環としての道州制」と結びつけると、「末端事務」が効率的になったというだけで終わるでしょう。

自治の根幹を譲らないための合理化が必要です。職員の数にしても、「基幹職員」を限定採用して自治体の基本政策を有効適切に実施できる体制を確立します。全国的な職員の移動も考えるべきです。井の中の蛙ではなく、国際的な視野で自らの自治を見つめることの出来る人材を養成する必要があります。その他の事務については、住民参加型の自治に転換していけば、ローコストの自治が実現できます。


2006/8/13(日) 矢祭町の地域防衛

「合併しない宣言」で知られる福島県矢祭町が、町民が地元の商店発行のスタンプ券を活用して公共料金を支払ったり、税金を納付したりすることができるようにする予定であるとの報道が先日ありました。対象は水道使用料や保育料、公共施設使用料、固定資産税、介護保険料などです。地元で買い物をすれば、公共料金支払額や納税額がその分少なくて済むことになります。

地元の商店主でつくる「スタンプ会」に加盟する約40店舗で商品を買うと、購入金額100円につきスタンプ券が1枚もらえる。280枚集めると500円の商品と交換できます。町民がスタンプ券を役場に持参すると、職員がそれをスタンプ会の事務局で小切手に換えてもらい、小切手を銀行で換金し、町の歳入に組み込むというシステムです。 

地方自治法は現金以外の税金納付について、証紙や小切手など限られた方法しか認めていません。 そこで矢祭町は、町職員が町民からスタンプ券を預かり、現金化して納めるという形にしました。根本良一町長は「法律をしゃくし定規に解釈せず、町民のために全知全能を傾けて取り組むことが公務員の役割だ」と話しています。同感。 

地方切り捨てがますます進んでいきます。国に頼るのではなく、自らの地域を防衛するための仕組みづくりを真剣に考えなければなりません。地域でお金の流れが循環することによって地域経済を防衛する必要があります。地域通貨導入を含め、地域内経済循環の確保を自治体の最優先政策として導入しなければならない時代に入りました。

役場を中心とした経済の循環を放棄した「平成合併の負け組」=「本所」を取れなかった旧自治体は、「自治」と「地域防衛」を放棄したということになります。これに対し、「合併しない宣言」の矢祭町の政策は、首尾一貫しています。


2006/8/12(土) 岐阜県裏金問題に見る「裏金」と組織維持

岐阜県が裏金問題で揺れています。処置に困って500万円を焼却したり捨てたりしたという報道には唖然とします。裏金作りは県情報公開条例施行直前の94年度まで組織的に行われ、94年度現在で総額約4億3000万円に上っていました。組合口座への集約は99年初めごろ、当時の副知事の指示で行われました。集約された裏金は少なくとも2億5600万円。現在も庁内の部署が約500万円、OBを含む職員が約1億900万円の裏金を保有していることも判明しています。

検察や警察でも裏金問題が起きました。彼らの場合は自らの権力を用いてもみ消しに努めました。岐阜県の場合は「金を焼いた」というところが顕著ですが、よく考えれば職員が「真面目」だったということです。どの組織でも裏金があると考えた方がいいのかもしれません。情報公開との関係でやりにくくなっているでしょうが、組織が「裏金」を欲している現実に変わりはありません。

組織が円滑に動くためには、どうしてもお金が必要になります。予算計上はしにくいし、説明も困難だけれども、職場の懇親を図り、上司が求心力を保とうとする手っ取り早い方法として、部下に飲食代を負担させない配慮(要するに、奢るということ)が必要になります。

ところが給与振り込みが一般化し、家計を完全に牛耳られるようになったお父さん達には、「私的な裏金」は乏しくなっています。月3〜4万円の小遣いで部下に奢ったりすることは不可能ですから、組織を大局的に見ている者からすると「公費」に準ずる組織的経費の捻出が必要だという判断に傾くのも当然と言えば当然です。

かつて「官官接待」が話題になりましたが、組織内接待を含めて、組織の円滑な運営のためのお金が必要なのかどうか、現実に即して議論してみる必要があるのではないでしょうか。組織の円滑な運営に金を掛ける日本的な組織運営が良いのか悪いのか。ウェットな組織かドライな組織か。組織にコミュニティーを求めたい従来型発想に対し、制度の建前は機能本位の組織を前提としている点に矛盾があり、その最前線が「裏金」問題です。ここをしっかり見ておく必要があります。「真っ正面から『組織内交際費』を認めろ」いう議論もあり得ると思います。

と、ここまで物わかりのいいことを書いておいて私の結論はと言うと、我が国が市民中心の社会をつくりあげ、官主導の社会から脱皮しようとするならば、組織は機能的でなければならず、裏金の出る余地をなくす方向への意識改革が必要になると思います。「裏金」型組織は、無能な上司の自己保全に役立つだけだという面も見なければなりません。組織が暴走して、上司のポケットマネーが増えるだけということにもなります。挙げ句の果ては愛媛県警のように、「署長をやると家が建つ」と言われるところまでエスカレートしてしまうのです。


2006/8/11(金) 「いつ行っても同じだ」・・小泉首相に見るイライラ感

小泉首相は10日午前、自らの靖国神社参拝について「15日だろうが、13日だろうが、いつ行っても(中国などは)批判している。いつ行っても同じだ。日本の首相がどこの施設に参拝しようが、批判される理由はない」と述べ、終戦記念日の15日の参拝に重ねて意欲を示しました。

2001年8月に靖国参拝を15日から13日に前倒しした際、近隣諸国に配慮する談話を発表したこととの整合性を問われると、「メディアは、公約を守らないと批判する。守ると、自分たちの意見に反するのは守らなくていいと批判する。何でも批判するのがメディアだ」と語っています。

以上の報道。マスコミを操縦支配して5年半君臨してきた総理の言葉とも思えませんが、権力者というのは、いかなる批判も好まないものだということを如実に語る資料としては貴重だと思います。 

日本の首相で、「勇退」という形で政権の幕を閉じた人はほとんどいません。思い当たる例は、佐藤栄作氏、中曽根康弘氏くらいですが、彼らにしても、求心力が維持できればもう少し長くやっていたかったという思いがあったでしょう(中曽根氏の場合は特に)。そういう意味では、求心力を維持しつつ政権の幕を閉じる小泉氏は、希有の総理大臣ではあります。その小泉氏にして抱くイライラ感。

権力者でありながら、日々不安定な心情で権力を維持するために心身をすり減らしているのが総理大臣という地位であるとするならば、大変な職務であると同情しなければなりません。しかし、当然と言うべきか、これはメダルの片面に過ぎません。

もう一つの側面は、野心の充足です。5年半、権力者としてやりたいことは十分やってきたはずです。問題があったとすれば、やりたいことが「郵政民営化」という漠然たるテーマだけであって、それ以外は「でまかせ」で言ったことをやる振りをしただけだったということです。

突破力はあったが、理念・哲学・政策を持たずに、時の勢いだけで権力を握ったが故の不全感。それまでほとんど参ったことのなかった靖国神社に「8月15日参拝する」と「公約」。後先考えずブチ上げた「公約」がまとわりついてのイライラだと思います。本当はどうでもよかったのに。

「いつ行っても同じ」ではないから「8月15日」を連呼したのが、5年半前の小泉氏でした。


2006/8/10(木) 公務員という積極的人生選択を(昨日の補足)・・朝日新聞社説を読んで

朝日新聞の10日社説は、「官と民 生涯賃金も比較せよ」とのタイトルで、人事院が「従業員50人以上」の民間企業にまで比較対象を拡大して国家公務員の月給・ボーナスの据え置きを勧告したことを肯定的に受け止めた上で、幾つかの問題点を挙げています。

まず、人事院の調査には、倒産した企業や解雇された人たちの事情が含まれていないとした上で、いまの勧告制度では生涯賃金で比べた場合の官民格差がまったく反映されていないことが指摘されています。例えば、退職金。そして幹部職員の高額退職金と天下り。 

多くの民間企業従事者がうなずく話です。しかし、公務員という人生選択をどう考えるのかという視点も併せて持った議論が必要です。
 
従来、公務員という選択は、「デモシカ先生」という言葉に代表されるように、消去法的な人生選択だったと思います。「公務員にしかなれない。公務員にでもなっておこうか。」これでは、使命感の持ちようもなく、組織が縦割りで視野が限定されることもあって、労働基本権が制約されているが故の身分保障に安住する怠惰な職業意識(「親方日の丸」)につながってきました。頑張れるのは、将来の保障があり、あるいは、退職後の天下りポストが射程に入っている一部の方々だけ。
  
この国には、公共的な利益のために頑張ってみようと思う人はたくさんいます。その人達にとってやりがいがある仕事を提供できるのが公的な分野であり、公務員の仕事であると明確に意識した上で、積極的な人生選択としての公務員像を示していかなければならないのではないでしょうか。即ち、「9時から5時まで」型勤労者ではなく「24時間型市民」としての公務員像を提示した上で、これに賛同する方々にとってやりがいのある人生(やりがいある待遇を含む)が公務員という選択だと定義することが必要だと思います。

この視点がなければ、嫉妬感情をカムフラージュした「正論」に流れてしまう危険があります。

「公務員の待遇は、下げればいいというものではない。仕事にふさわしい待遇をしなければならない。」朝日新聞社説はこのように書いて、釘を差すことを忘れてはいません。しかし、この部分を敷衍してくれなければ、大衆迎合型の「嫉妬的正論」との違いが不明確になってしまいます。 


2006/8/9(水) 「給与据え置き」・・・公務員の給与は高いか

人事院は2006年度の一般職国家公務員の給与について、月給とボーナスをともに据え置くように、内閣と国会に勧告しました。国家公務員の給与は民間企業の水準を参考に、官民格差を是正する形で決めますが、今年度から民間企業の比較調査対象をこれまでの従業員100人以上から、50人以上の小規模企業も対象に加えました。

大手企業の給与が「景気回復」の影響で上昇しています。しかし、中小零細企業の給与は停滞気味です。「大手」が基本になるのか、「中小・零細」が基本になるのか、公務員の給与算定基準のあり方が問われます。

公務員1人の人件費を仮に年間700万円とします(月給、ボーナス、法定福利費、退職金積み立て分等を含む)。平均像に近いと思われます。年間労働時間を2080時間として、時給は3365円。「3000時間くらいはやってるよ」ということであれば、時給2333円。パート・アルバイトの時給と比較すると圧倒的に高いと思われます。しかし、担っている任務の重さを考えると高いとは言えないのではないでしょうか。

公務員の人件費に批判の目が向くのは、一般勤労者との乖離が大きくなったことが関係しています。あの人達は「大手」の人たちなんだと思って納得できるかと言えば、なかなかそうはいかないのではないでしょうか。

公務員の側からは、別の見方があります。自分たちは、難しい試験に合格した。そもそも、学校で勉強して良い成績を取り、安定した職業である公務員を選択することのどこがおかしいのか。景気がいいときには、民間企業に就職した者は高い給与をもらっており、公務員は安い給与に甘んじなければならない。景気が悪くなると嫉妬の目で見られる・・・

私は、公務員の給与は高くないと思っています。公務員になっている人たちの能力と担っている責任の重さを考えたとき、もっと引き上げてもいいでしょう。社会の中核となる中産階級を大切にしなければなりません。中産階級の一翼を担う公務員の生活の安定が図られなければなりません。公務員という生き方を積極的に肯定し、誇りを持てるようにする。そして、公務員が地域社会を担っていくべきです。

問題があるとすれば、公務員の労働の質と量です。本当に国家や地域に役立つ労働を効率的にやっているのかどうかです。国家公務員の仕事の中核である補助金の査定などが本当に必要な仕事なのかどうか。やらなくてもいい仕事はバッサリ切る。やるべき仕事をしっかりやる。その上で、良識ある中産階級として、仕事以外に地域に貢献する気概を持つ。そういう公務員は、地域にとっても宝であり、嫉妬の目で見られることはないと思われます。

給料はもっと取れ。国家社会の役に立つ仕事をもっと効率的にやれ。これが私の結論です。この方がきつい意見かもしれません。


2006/8/8(火) 亀田父と田中康夫、小泉純一郎

昨日の亀田父のテレビ朝日・スーパーモーニングへの出演を偶然見てしまいました。

ガッツ石松氏の落ち着いた対応、やくみつる氏のファイトある突っ込みに感心。これに対する亀田興毅の父・史郎氏は、41歳にしてやんちゃ坊主。息子を庇おうとする気持ちは痛いほど分かりましたが、自分たちのストーリー以外は受け付けない偏狭さは、いずれ墓穴を掘ることにつながるでしょう。

田中康夫氏の長野県知事選挙での敗北を連想してしまいました。彼も自らのストーリーにこだわりすぎたように思います。朝日新聞の社説は、田中氏を「大人の知事になりきれなかった」と評しています。田中氏は、自分と自分のストーリーの中に自己充足してしまい、県民の目線で自己と自己の政治手法を客観視する作業を怠っていたのではないでしょうか。「田中康夫」の政治家としての基盤は、国民・県民の期待にあったのですが、彼はそれを属人的な資質ないしは「田中康夫の実力」と勘違いしていたと言うべきでしょう。この「錯誤」が災いして、長野県民は「田中康夫」という巨大な地域資源を失い、田中氏も大きな活動の舞台を失いました。

これに対し5年半を逃げ切った小泉純一郎氏の場合、終始マスコミを操縦支配し、高い露出度を維持し続けました。地方は無惨に切り捨てられましたが、似非「規制緩和」で一部の人たちを儲けさせる。国民生活を犠牲にしながら、無国籍化・多国籍化した大企業に多大な利益をもたらす経済運営を行う。アメリカとの属国路線を突き進み、アメリカの庇護を受ける・・・  巨大な味方をつくりながら、「抵抗勢力」との活劇を演じていたのです。カリスマペテン師と言うべきでしょう。

田中康夫氏は、自己の実力を過信して、全てを敵に回しました。今回の選挙では、マスコミの露出度、取り分け、全国放送での露出度が減ったことで、国民の期待を背に受けてブーメラン的に長野県民の世論に働きかけるということができませんでした。もちろん、彼がマスコミを支配できていない、ただの人気者だったからです。

亀田一家は、テレビに使い捨てにされるでしょう。そのときなお維持できる自らのストーリーがあれば、それは財産になります。やんちゃな親父と共に全てを見失うのではないかという懸念もあります。テレビにつくられたヒーローである亀田一家。スポットライトが消えたときからが彼らの人生です。親父が息子より広い視野でいてくれることを願います。


2006/8/7(月) 田中康夫敗北・・「おこぼれちょうだい型」自治に回帰した長野県

中央集権体制が頑強な日本で、地域が自力で元気を出そうとするならば、「地域資源」(=地域が他に誇れる財産)を発掘して育てていく必要があります。

長野県民は昨日の知事選挙で、全国に強力な情報発進力を持つ「田中康夫」という巨大な地域資源をゴミ箱に捨ててしまいました。これから長野県は、中央に従順な「おこぼれちょうだい型」の自治に回帰していくことになります。

国を頂点とするピラミッド構造を打破することは極めて困難です。現行県議会議員選挙のシステムでは、旧来型の意見を代表する候補者が当選する形になります。旧来型の意見を代表する議会と直接選挙で選ばれた改革派首長とがどういう関係を築けるかが、地方自治における難問の1つです。

高い理想を実現しようとすると、県議会との対立構造が出来てきます。かと言って、行政を円滑に進めようとすれば、「談合政治」の誘惑が待っています。議会との対立構造は、報道が繰り返されることで、ボディーブローを打たれ続けるような影響が出てきます。有権者が首長の実行力や資質に疑問を持ち始めてくると、旧来型勢力にとって「反革命」のチャンス到来という流れになります。

これから長野県は、露出度の少ない何の変哲もない県になっていくでしょう。観光で食っていける数少ない県が、大きな「観光資源」を失いました。もったいない話。富士山は遠目には綺麗だが、近くはゴミだらけです。しかし、ゴミを見て「富士山はいらない」と言う静岡・山梨県民はいません。「ゴミ」を見て「山」を見なかった長野県民。

先細りする公共事業に夢を託した長野の皆さん、「穏和なジリ貧県政」をじっくり観察してください。 御愁傷様。

<参照>
8月5日:平成合併・長野の陣・・田中康夫氏を支持する


2006/8/6(日) 「靖国合祀」は「神聖無比の恩典」

太平洋戦争末期、東條英機首相(兼陸相)が「戦役勤務に直接起因」して死亡した軍人・軍属に限るとする靖国神社合祀基準を陸軍秘密文書で通達していたことを示す文書が存在したと報じられています。 

文書は、靖国への合祀は「戦役事変に際し国家の大事に斃(たお)れたる者に対する神聖無比の恩典」であり、合祀の上申は「敬虔にして公明なる心情を以て」当たるよう厳命しています。原則として戦地以外での死者は不可。戦後の東條氏らA級戦犯は明らかに「合祀」の対象外です。
 
靖国神社は、「戦死者」が祀られる施設です。「戦死者」の解釈については、戦地での病死等が例外として認められていますが、戦後に裁判で処刑された者が含まれないことは明確であって、「A級戦犯」を合祀することは「靖国合祀」の本旨に反するものです。

「A級戦犯」合祀を正当化するとすれば、連合国による「東京裁判」を否定するしかありません。太平洋戦争が正当な戦争であり、その責任を問われるべきではないとの論理が、小泉氏や安倍氏を靖国参拝に駆り立てる真の動機であると思われます。

この論理は、「敵国」による「報復」への反発を利用して、国家の指導者の「敗戦責任」を曖昧にすることにつながります。安倍氏などはむしろ、それを意図しているのではないかと思われます。

戦争はすべきではありません。しかし、やむにやまれざる事情の下で戦争を行うとしても、国家の指導者は負ける戦争をして国民を巻き込んではなりません。負ける戦争をした指導者は、「敵」に裁かれる前に国民によって裁かれるべき存在です。

我が国民にとっての悲劇は、当時の指導者が負けると分かっていて、自分たちの立場を守るために国民を犠牲にして戦争を行ったところにあります。国家国民を守るための戦争ではなく、組織と指導者個人を守るための戦争。当時の国民にとっての真の敵は、「連合国」ではなく我が国の指導者だったと言ってもいいと思います。

我が国の弱点は、指導者の敗戦責任が明確にされず、逆に「一億層懺悔」と言われて国民が納得してしまうところにあります。国家指導者による靖国参拝は、戦争に勝てば指導者の名誉、戦争で負ければ「一億層懺悔」という「指導者無責任の論理」を正当化するためのものです。この無反省な態度が、第二の敗戦と言われた「失われた10年」の責任が曖昧にされていることにつながっています。

敗戦責任を負う指導者が「赤紙」一枚で招集された兵士達と一緒になって被害者のような顔をして眠ることは、国家の恥であるという自覚を多くの国民が持つべきです。「A級戦犯合祀」は、「A級戦犯」の方々も望まない不名誉な事態だと思います。

広島に原爆が投下されたのは、1945年8月6日午前8時15分。「銃後」の庶民も惨憺たる被害を被りました。合掌。


2006/8/5(土) 平成合併・長野の陣・・田中康夫氏を支持する

民主党・小沢代表が長野県知事選挙で田中康夫氏を支持すると明言しました。私は別の角度、平成の市町村合併に反対し続けてきた者として、田中康夫氏を支持します。

「平成の合併」は、「分権の受け皿」の謳い文句を掲げながら、実質は中央集権強化のために弱小市町村を取り除こうとする、国家による自治潰しの策動です。私はこれに、反対し続けてきました(このブログの前身は「四国の星」HPですが、そのまた前身は「市町村合併反対のHP」でした)。

田中県政には様々な批判があります。それは中央集権に従順な人にとって田中県政が邪魔になるからであり、利権を失うことに怯えている人たちによる不満の表れだと言っていいと思います。一部マスコミも震源地になっています。県民による反乱ではありません。

田中県政は、「県」という自治体が、弱小市町村の味方になることを示した希有の存在です。田中氏は4年前の選挙の頃から市町村合併反対を明確に打ち出し、その方針に従った施策を実施してきました。

「平成の合併」は、国家によるインチキキャンペーンが功を奏し、多くの地域で小さな自治体を「店じまい」に追い込みました。自治体が血の滲む努力をすることを回避し、国のいいなりになってしまったことは残念でなりません。しかし長野には、栄村や泰阜村など、見習うべき「小さな自治」の事例があります。これを「利権派」に踏み潰されてはなりません。

大阪冬の陣(1614年)夏の陣(1615年)には、信州・上田の真田幸村がいて、敢然と戦いました。長野県民には、「六文銭」の誇りを取り戻し、今度は勝っていただきたいと思います。

情勢混沌との報道がありますが、田中県政が維持され、平成合併反対の砦の1つが死守されんことを希います。


<参照>
7月1日:2つの長野県
7月8日:民主党長野県連、知事選自主投票


2006/8/4(金) 「嘆かわしい」と首相を批判した朝日新聞社説

「靖国参拝 嘆かわしい首相の論法」という表題の朝日新聞社説が指摘した小泉首相の論理は、できの悪い中学3年生レベルです。 

小泉氏の論理、その1。「私の靖国参拝を批判しているマスコミや有識者、一部の国」に対し、「戦没者に対して、敬意と感謝の気持ちを表すことはよいことなのか、悪いことなのか」 との批判。

朝日新聞の反論。「悪いなどとは言っていない。私たちを含め、首相の靖国参拝に反対、あるいは慎重な考えを持つ人々を、あたかも戦没者の追悼そのものに反対するかのようにすり替えるのはやめてもらいたい。」 

小泉氏の論理、その2。「私を批判するマスコミや識者の意見を突き詰めていくと、中国が反対しているから靖国参拝はやめた方がいい、中国の嫌がることはしない方がいいということになる。」 

朝日新聞の反論。「日本がかつて侵略し、植民地支配した中国や韓国がA級戦犯を合祀した靖国神社への首相の参拝に反発している。その思いにどう応えるかは、靖国問題を考えるうえで欠かすことのできない視点だ。」が、「それは私たちが参拝に反対する理由のひとつに過ぎない。首相の論法はそれを無理やり中国に限定し、『中国なにするものぞ』という人々の気分と結びつけようとする。偏狭なナショナリズムをあおるかのような言動は、一国の首相として何よりも避けるべきことだ。」 

さらに朝日新聞。「その半面、首相が語ろうとしないことがある。あの戦争を計画・実行し、多くの日本国民を死なせ、アジアの人々に多大な犠牲を強いた指導者を祀(まつ)る神社に、首相が参拝することの意味である。」 「戦争の過ちと責任を認め、その過去と決別することが、戦後日本の再出発の原点だ。国を代表する首相の靖国参拝は、その原点を揺るがせてしまう。だから、私たちは反対しているのである。」 

続いて昭和天皇のメモについて朝日新聞。「昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を抱き、それが原因で参拝をやめたという側近の記録が明らかになった。国民統合の象徴として、自らの行動の重みを考えてのことだったのだろう。もとより中国などが反発する前の決断だった。」 

憲法に関する首相の解釈。(憲法19条を引き合いに出して)「どのようなかたちで哀悼の誠を捧(ささ)げるのか、これは個人の自由だと思う。」

朝日新聞の批判。「19条の規定は、国家権力からの個人の自由を保障するためのものだ。国家権力をもつ首相が何をやろうと自由、ということを定めた規定ではない。」「憲法20条の政教分離原則を素通り」していることも指摘。 

何故マスコミは、このような人物を5年半も放置したのでしょうか。公約違反に対する「この程度の公約云々」も総辞職ものでしたし、「人生色々、会社も色々」も酷かった。従来の政権だったら何度も崩壊したはずの分岐点がありましたが、マスコミが手心を加え続けました。マスコミの翼賛体質にこそ、批判の目が向けられなければなりません。

もう少し穿ってみます。首相および安倍氏ら政権側の一部は、「A級戦犯」を弔うために靖国神社に参拝しているのであって、「英霊」たちを弔うための参拝ではないのではないでしょうか。即ち、国家体制が戦前と継続していることを証明するための参拝ではないのでしょうか。極めて不自然な参拝です。安倍氏が4月に参拝していたとの報道。彼としては当然の行動だと思います。A級戦犯の孫なのですから。


2006/8/3(木) 疑惑の判定と疑惑の人気

マスコミ、取り分けテレビの力は大きく、昨年の総選挙においてもテレビの力で、不条理な「郵政民営化」を争点とする選挙で自民党が圧勝しました。「刺客」云々のアクションドラマ風に仕立て上げられた選挙は、当然ながら仕掛けた側に有利な展開になりました。

昨日、負け試合が「判定勝ち」となり、亀田興毅が世界チャンピオンになりました。大晦日の試合が予定されていなかったならば、そういう結果にはならなかったのではないかとの疑惑だけが残りました。

今春のワールド・ベースボール・クラシックで、アメリカの判定が余りにも酷く、日本中が怒ったことを想起すれば、それが逆になった今回の「事件」で、我々日本人が「フェアな判定」という課題を背負う番になりました。

私は見る価値のない試合だと思い、昨日の試合は見ませんでした。そもそも、視聴率を取るためにつくられたスターである亀田。これまでの対戦相手についても疑問符が付けられていました。つくられた人気は、脆いものです。これからの亀田がどういう姿勢でボクシングに取り組むのか、高飛車な態度がどう変わっていくのか、そのあたりが「復活」のポイントになるでしょう。

政治の世界でも、マスコミがつくった「総裁候補」がいます。答えやすい質問だけをして、「明快な」回答をする。北朝鮮にだけ「毅然とした」態度を取る。こうして盛り上がった「人気」も、実力の程が明らかになれば、失速することになるでしょう。

この人物の場合には資質に疑問があり、若い亀田のように、姿勢と態度を変えればなんとかなるという展開にはならないでしょう。政権側の総力を挙げて盛り上げようとしても無理だと思います。


2006/8/2(水) 合併と地価

全国の土地の路線価が発表されました。大都市部では上昇。ミニバブルとの指摘もあります。それに対して、地方は低迷しており、地価において大都市と地方との格差が鮮明になっています。

地方で注目すべきは、市町村合併によって中心部になれなかった地域と「周辺部」に追いやられた地域との格差です。当然と言うべきでしょう。「周辺部」の地価は下落し、「中心部」の地価は相対的に有利な状況になっています。

合併については、役場が遠くなり、行政サービスが低下するという懸念が住民にありました。もちろん、それだけではなく、役場をなくし周辺となった地域そのものが衰退することが織り込まれていました。役場を中心とした地域経済の循環が断ち切られれば、当然のことながら経済が収縮して土地への需要もなくなります。

合併というのは、周辺部切り捨てにより全体としての地域が生き残る政治的選択です。この本質を理解しなければなりません。周辺部に与えられるのは、実現することのない「夢」だけです。世間を知っている大人なら当然分かっていなければならない道理を理解しようとしない方々が、地域を引っ張っていった結果です。

周辺部の地域振興をどうするかは重大な問題です。まず、地域住民がこのままでは地域が消滅することを自覚し、危機感を共有すること。そして、「戦線」を縮小して地域の密度を高め、効率的な地域経済の確立を目指すことが必要です。居住地域を「支所」、郵便局、JA等の周辺に誘導する施策を可及的速やかに実施できた地域は、衰退の流れを遅らせることができるし、うまくいけば、地域を存続させることができるでしょう。


2006/8/1(火) ポスト・ポスト小泉との戦い

次期総理は、安倍氏で決まり。問題はその後です。来年の参院選は、民主党が転ばない限り、自民党は敗北します。

参院選は、自由に政権批判票を投じることができる性格の選挙です。参院選の投票で政権交代が行われるわけではなく、自民党が負けても自民党の総理大臣が替わるだけです。しかも参議院議員は地元とのつながりが弱く、選挙区選挙においても候補者個人への投票というより政党の候補への投票という色彩が強まります。比例代表選挙と同じです。

地方経済は、「これまで通り自民党」ということが許されない状況になっています。ポスト小泉が「改革路線」継承であることがはっきりすれば、「もう勘弁してくれ」という流れが加速します。「自民党に言われて応援するふりはしたが、今回は民主党に入れたよ」と言う「社長さん」達の姿が見えるようです。

安倍氏より小泉氏が優秀であるということではありません。どちらも凡庸な政治家です。しかし、小泉氏は非凡なペテン師であり、友達もおらず、何時政治家を辞めても構わないという状態で総理大臣になったため、後のことは何も考えない政治を行うことができました。これに対し安倍氏の場合、名門であり、交友関係を大切にせざるを得ず、政治家として先が長いというところが、決定的な弱みになる可能性があります。

参院選で地方の不満が噴出した後で、「政権交代」が本格的に議論され始めます。参院選では比較的自由に投票できた保守層が、衆院選では身構えることになります。人間関係も参議院の場合より濃密であること、参院選で「お灸」を据えていることで、「民主党さんの政策をじっくり検討させてもらいましょう」という流れになるでしょう。自民党衆議院議員で真の野心家なら、これから激烈な小泉・安倍批判を展開し、その存在をアピールすることが将来につながります。短い「ポスト小泉」に賭けるのは、短慮というべきでしょう。

「安倍氏では戦えない」ということから、「ポスト安倍」の総理との衆院選。日本の有権者は、政権交代が問題になると「哲学者」に早変わりします。しかも、様々な政権擁護の論説が飛び交います。ポスト・ポスト小泉との戦いがどうなるかは予断を許しません。

民主党にとっての「戊辰戦争」は、「文明開化」と「四民平等」を知らぬ江戸時代の庶民に、地球儀を振りかざして新時代を語るような難しさがあります。しかし、それを乗り越えないと新時代は来ません。


玉井彰の一言 2006年8月 四国の星ホーム一言目次前月翌月