玉井彰の一言 2006年9月 四国の星ホーム一言目次前月翌月

2006/9/30(土) 安倍総理「所信表明」と公教育のあり方について

《 (教育再生) 
私が目指す「美しい国、日本」を実現するためには、次代を背負って立つ子どもや若者の育成が不可欠です。ところが、近年、子どものモラルや学ぶ意欲が低下しており、子どもを取り巻く家庭や地域の教育力の低下も指摘されています。 

教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家、社会をつくることです。吉田松陰は、わずか3年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が「明治維新胎動の地」となったのです。家族、地域、国、そして命を大切にする、豊かな人間性と創造性を備えた規律ある人間の育成に向け、教育再生に直ちに取り組みます。 

まず、教育基本法案の早期成立を期します。 
すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するため、公教育を再生します。学力の向上については、必要な授業時間数を十分に確保するとともに、基礎学力強化プログラムを推進します。教員の質の向上に向けて、教員免許の更新制度の導入を図るとともに、学校同士が切磋琢磨して、質の高い教育を提供できるよう、外部評価を導入します。 
 
こうした施策を推進するため、我が国の叡智を結集して、内閣に「教育再生会議」を早急に発足させます。 》


以上が、安倍総理大臣の所信表明における教育に関する部分です(官邸HPより)。


(コメント)

前半部分は、抽象的にはその通りです。そのためにどうするかが問題です。後半部分の施策がこれに対応するものであるとは思えません。

教育基本法改正には疑問があります。立花隆氏が月刊現代10月号で述べているように、現在の教育基本法は戦前の教育勅語に代わる教育の目的を指し示したものです。その内容は、ルネサンス、宗教改革などを通して人類社会で普遍的に認められるようになった、一連の人間存在に中心を置いた人類共通の価値体系であり、世界全体で当たり前に認められているものであって、敗戦を契機に日本が西洋型の民主主義に立脚した国づくりを行うための原点を示したものと考えるのが妥当です。これを否定する方々が想定するモデルは、「教育勅語」、ないしは特殊な国家観によるものにならざるを得ません。

「愛国心」というものは、愛情をもって家庭や社会によって育てられた子供なら、郷土愛の延長線上で普通に抱く感情であって、ことさら国家が力む必要のないものです。ここで力みたがる人たちには、「国ために死んで見せます」の一言を言ってくれる人間が欲しいという本音が隠されています。教育基本法に欠陥があって教育が乱れているというのは、大きな誤解です。

それでは、公教育はどうあるべきでしょうか。国家の目的である人材育成の観点からも、個人(学習する子供)の自己実現の観点からも、より多くの情報を獲得し、大量の情報を処理できる技術を持った人材になれるような環境整備が求められます。

「ゆとり教育」というのは、口当たりは良いけれども、子供が基本的な情報の不足により物事を考え抜く力を持てなくなり、結果として、もの言わぬ「兵隊さん」を大量生産することになってしまう恐れがあります。「小人閑居して不善をなす」「下手の考え休むに似たり」というのが一般教育においては真理であろうと思います。「ゆとり」がプラスに作用するのは、ほんの一握りの天才だけです。

国民一人一人に高度な基礎学力がなければ、21世紀に我が国が先進国で居続けることは困難です。各個人が好みに応じて「私学」を選択する自由があることは当然として(私も中高は私学です)、公教育の中で最高の人材を養成できるだけの投資を国家が行うべきであると思います。

安倍総理が語る「外部評価制度」が如何なるものであるかは不明ですが、個々の公立学校の評価というようなミクロの視点では、教育現場を硬直化させる意味合いしかないと思われます。「評価」が必要であるとすれば、私立学校と公立学校との前向きな競い合いができているかどうかです。私学の個性と公教育が果たすべき人材育成力との両立の観点からの「評価」が必要です。

私学においては「選抜」が可能です。小中学校の公教育においては、選抜が不可能である場合が大半ですし、誰にでも開放された中での教育が必要であるだけに、生徒1人当たりの教員数は多くなければ目的達成は困難です。子供の個性と到達度を見極めながら、教育目的を達成していくためには、カリキュラムも画一的であってはならないと思います。

少人数学級であればきめ細かく指導できるというものでもありません。むしろ、子供の個性に合わせた分類が必要です。分類が適切であれば、100人学級でも指導は可能です。従来、到達度でクラス編成を行うことには抵抗がありました。しかし、あくまで子供が主人公であり、子供と保護者が納得して分類されたクラスを選択することとし、そのクラスを選択することが人生設計上どういう意味があるのかをカウンセリングする機能が学校にあれば、柔軟なクラス編成が可能になります。

カウンセリングということに関して言えば、子供のトータルな人生設計を親身になって考える機能を教育機関が持たなければ、折角の教育投資が無駄になってしまうことにもなりかねません。ここに予算と人材を配置することが必要であると考えます。

教師の問題にも一言。一部の教師が、「護憲」と「戦後民主主義」を金科玉条とするあまり、思考停止に陥っています。その問題が端的に表れているのが、国旗・国歌の問題です。個々の教師の信条の問題と生徒の教育との関係を見誤っているのではないでしょうか。

学校教育というのは、所詮、「定説」「通説」を教える場です。個々の教師の信条は、授業中の挙措動作や「無駄話」の中で生徒が悟るものであって、真っ正面から教師の信条や「自説」がぶつけれたのでは生徒や保護者もたまらないし、公教育全体の信用も低下します。国旗・国歌に対する態度も、「国旗・国歌法」の制定如何に関わらず、社会常識として最低限度の礼儀をもって国旗・国歌に接するという態度を教師が示すべきです。そうでなければ、国家と国民との良好な関係を築き上げることができません。都教委における「通達」の違憲・違法性(私は都教委を「ファシズムの走狗」であると言い続けています)は、教育現場を離れたところで、「市民」として争えばいいのです。

自民党も一部教師もバランス感覚を失っています。常識的なところで教育全般を議論したいものだと思います。国家が期待する人物像に国民を縛り付けるのではなく、国民が自由に選択した教育・学習の結果として、国家・社会にとって有意義な人材が輩出されるような仕組みづくりと環境整備が国に求められています。

(以上、昨日の「四国の星掲示板」投稿への「返信」として)


(参照)
2006年9月23日:「違憲vs非常識・・・都教委『通達』への違憲判決」


2006/9/29(金) 「道州制」に反対する

私は「道州制」論者です。しかし、現時点では道州制には反対であると申し上げておきます。何故ならば、このまま貧弱な議論が展開されていくと、単なる「県の合併」になってしまうからです。

安倍政権が掲げる「道州制」とは「県の合併」に過ぎず、「県」の広域化をもたらすだけに終わります。市町村の広域化が「平成の市町村合併」でした。その延長線上にあるのが自民党の企む「道州制」です。

これは要するに、「県」のリストラです。市町村リストラである平成の市町村合併に続く県のリストラ。この本質を見抜く必要があります。民主党と同じ言葉で国民を混乱させて概念を骨抜きにするという、自民党的な政治手法の中で「道州制」が主張されている状況下では、「道州制」自体を一旦否定する方が賢明であると考えます。

自民党型「道州制」が目指すものは、地方分権ではなく、中央集権を前提とした地方統治の合理化です。市町村の側から見ると、中間搾取団体である県がリストラされつつ巨大化することを意味します。遠くて巨大な中間搾取団体の誕生です。

そうした有害団体ができるくらいなら、まだ現状の方がましです。真に地方主権型社会をつくるための手法としては、中間搾取団体である「県」を廃止する方が早いと思います。前提として、基礎自治体に大きな権限、財源を与える必要があります。県職員は基礎自治体に「転勤」してもらうことになります。その後、基礎自治体の連合体として地方の産業振興を目的とする「道州」を新たにつくりあげるべきだと思います。

小沢一郎氏の「300自治体論」で一度「革命」をやり、「更地」をつくってから作業を行うというやり方になります。小沢氏も、「日本改造論」を読む限り、道州制を否定していないようです。ただし、「300自治体」への再編は慎重にやらないと地域を殺すことになります。しかし、国においても地方においても、どのみち、「大手術」が必要です。


(参照)
2006年9月14日:「小沢一郎氏の主張する『300自治体』を考える」


2006/9/28(木) 東京新聞の「特報」と「美しい国」vs「政治は生活」

東京新聞に「特報」というコーナーがあります。

最近あるブログに9月23日の「特報」が紹介されたことで、その存在を知りました。「安倍新政権にメディア戦々恐々?」というタイトル。以下、転載。


《 安倍新政権にメディア戦々恐々?

安倍政権が始動する。首相官邸の広報機能も強化するそうだが、気になるのは安倍流のメディア対応。自民党幹事長時代には「バランスを欠く」とテレビ局を痛烈に批判。党幹部の出演拒否などで物議を醸した。一方、自身については靖国参拝についても、ひたすら“だんまり”。権力のチェック機能を課せられたメディア側も押され気味だ。自省を込めつつ、同氏の「開放度」を検証すると−。

自民党のメディア、特にテレビ局に対する強硬な姿勢への転換は、二〇〇三年九月の安倍氏の党幹事長就任と軌を一にしている。

まず、〇三年十一月、衆院選直前にテレビ朝日の番組が民主党の閣僚構想を長く報じたことに抗議し、投開票当日に同局への党幹部の出演を拒否した。

この際は、報道被害者の救済機関「放送倫理・番組向上機構」(BPO)が運営する「BRC(放送と人権等権利に関する委員会)」に安倍幹事長名で審理を申し立てるに至った。

さらに〇四年七月の参院選では、TBS、テレビ朝日の年金報道について、報道各社に「政治的公平・公正を強く疑われる番組がありました」とする文書を二、三百件も送付。

選挙戦でも「みどりの会議」の中村敦夫代表のHPに掲載されたパロディストのマッド・アマノ氏の作品に対して、幹事長名で削除を「厳重通告」した。

この選挙後、安倍氏は幹事長代理となるが、自民党は〇五年八月には「NHK番組改変問題」で朝日新聞の資料が外部に流出したとして、記者会見以外での同紙による党役員に対する取材を事実上拒否する。同年九月の衆院選でも、造反議員への対立候補を「刺客」とあえて呼ばないよう、報道各社に文書を送った。

ある民放の中堅社員は「政治家が報道内容に必要以上にピリピリしている現状は異常だ。安倍政権になって、その傾向が強まるのでは、と危機感を持っている」と率直に明かす。

例えば、ことし七月、TBSのニュース番組で内容と無関係な安倍氏の写真が放映され、同局に総務省から「厳重注意」が下った件についても「昔なら番記者を呼んで『あれはない。何か悪意でもあるの?』『頼むよ。気をつけてよ』で済んだ話だった」と驚く。

別の局の社員はテレビ朝日の出演拒否問題を聞いて「あぜんとした」と話す。

「『おまえたちもテレビ朝日みたいになるぞ』と他の局への脅しにもなった。メディアで反論せず、すぐに司法やBRCに訴えるというのも理解しがたい」

最近、テレビ局を監督する総務省もおかしくなってきたと語る。「総務省がすぐ『〇〇日に放送した番組のリポートを出せ』などと言ってくる。なぜ、と問いつめると『〇〇先生に聞かれて』とポロっと明かす」

一方、自民党から通告書を受けたマッド・アマノ氏は「通告書というよりは脅迫状だった」と振り返る。

そこには「自民党は(コピーの)改変を承諾していない。小泉総裁と自民党の名誉を棄損したのは明白だ」と断じていた。アマノ氏は「コピーの間違いを国民の立場から添削して差し上げたつもり。どうお考えになりますか」と安倍幹事長(当時)に対し“逆通告書”を送ったが、ナシのつぶてだったという。

逆に安倍氏自身が取材対象となった場合、メディアへの対応はどうなのか。 

〇四年に近親者の名前が浮上した疑惑取材に取り組んだジャーナリストの山岡俊介氏は、安倍氏の事務所に質問状を送ったが「事情が分かる人がいない」と繰り返された末「ノーコメント」と電話を切られた。 

「今に至るまで質問状への答えはない。自分にとって都合の良い質問には答えるが、そうでない質問からは逃げる。他の同業者からも似たような反応を聞く。政治家の説明責任を果たしていない」(山岡氏) 

今春には、世界基督教統一神霊協会(統一教会)系の団体の集会に安倍氏が祝電を寄せたと報じられた。 

この件で、安倍氏はことし六月、「私人の立場で地元事務所から『官房長官』の肩書で祝電を送ったとの報告を受けている。誤解を招きかねない対応であるので、担当者によく注意した」とコメントを発表した。 

だが、この祝電を問題視した「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の公開質問状へは返答していない。 

祝電問題と一連の対応について「こちら特報部」も安倍氏の事務所に問い合わせたが「政治部を通して。番記者を通してください」と繰り返すのみ。経緯の確認もできなかった。 

■靖国参拝問題なお明言せず

政治姿勢に絡んでも、開放的とは言い難い。代表的な例は、ことし四月の靖国神社参拝が判明した件だ。国内の政治問題として焦点化していたにもかかわらず「参拝したかしないかについて申し上げるつもりはない」と繰り返してきた。 

首相就任後も参拝するか否かについても「外交問題、政治問題化する中で、あえて宣言するつもりはない」と明言を避けている。 

さらに先月、加藤紘一・自民党元幹事長の実家が放火された件では、小泉首相同様、事件から約二週間たって初めて「仮に加藤氏の言論を弾圧し、影響を与える行為だとするなら許されない」とコメントした。事件当日の午後から夏休みだったが「緊急を要する案件」とはみなさなかった。 

不気味なのは安倍氏当人とは無縁でも、その批判者に暴力的な攻撃が加えられている点だ。先の加藤氏のみならず、この間、安倍氏を激しく批判している田中真紀子元外相の自宅にも最近、脅迫電話や表札に生卵などが投げつけられた。 

こうした状況について、メディア訴訟に詳しい喜田村洋一弁護士は「米国では一九六四年にニューヨーク・タイムズを勝たせた最高裁判決以降、メディアが記事内容が虚偽であることを知っているか、真実性に関心を持たずに報じた場合を除けば、政治家のような公人はメディアに賠償を求められない」と紹介する。 

上智大学の田島泰彦教授(メディア法)も警鐘を鳴らす一人だ。田島氏は安倍氏の対メディア姿勢が顕著に表れた例として、NHK番組改変問題を挙げる。 

■「権力を監視する認識ないのでは」 

「安倍氏本人は圧力を加えたつもりはなくても、放映前にNHK幹部に番組内容について何か言えば、客観的には圧力以外のものではなくなる。そこに思いが至らない。彼にはジャーナリズムが権力から独立し、権力を監視するという認識がないのではないか」 

新政権は反対も根強い改憲や共謀罪制定への意思を明らかにしている。田島氏は「現政権はメディアを利用しようとしたが、新政権は意に沿わないメディアに直接的に介入してくる恐れがある」と懸念する。同時にメディア側の「現状」にも危機感をにじませる。 

「取材からの排除や訴えられることが度重なると、報じる記者が社内で疎んじられかねない。NHK番組改変問題でも、取材した朝日新聞の記者や告発したNHK職員はその後、異動になった。メディア側の委縮はすでに始まっている」 

<デスクメモ> 今回、わが部の記者が自民党広報本部に取材を頼んだ。午後一時に電話すると「忙しい」。その後、四回電話してもダメで夕刻、本部に飛び込むと「忙しい!」。名刺交換すら拒まれ、廊下で待つとねばると、上司に電話。名刺交換にこぎつけたものの、そこで時間切れ。表玄関からの取材はやっぱり無意味?(牧)    》


(コメント)

東京新聞は死んでいない。そのことを示す記念碑的記事です。

メディア対策が至上命題であると考える新政権。そのことは官邸人事でも明確です。「人気がある」ことが人気の源泉であり、「支持率がある」ことが支持率の根拠となっていくものと予想されます。各紙の世論調査で、新政権の支持率が出ています。朝日63%、毎日67%、読売70%、日経71%。一種のバブル。

民主党の新CM「人が、暮らしが、豊かな国へ」が発表されました。民主党のホームページによると、<「政治とは生活である。」という民主党の政治への考えを表現。「政治はあくまでも人々の生活に密接につながっているものであって、だから具体的でなければならない。政治は国民の生活を豊かに、幸せにするためにある。」との考え>が表現されているものです。

抽象的な「美しい国」なのか、具体的な「生活」なのか。ここが対立軸になりそうです。メディアに神経質な安倍政権が、「美しい国」ならぬ「美しい安倍政権」、「美しい安倍晋三」を描かせるべく干渉し、メディアを実質的な政府広報機関にしようとすることが予想されます(小泉政権で相当程度、メディア支配が進みました)。

国民が自らの「生活」に目を向ければ、「安倍バブル」は崩壊します。メディアが、東京新聞の記事を読んで恥を知るならば、この国の民主主義には復元力があると思います。


(参照)
2006年9月20日:「権力者が美しく見える病気に冒された日本テレビ」

2006年9月24日:「テレ朝よ、お前もか・・・権力者礼賛番組に見るテレビの行き詰まり」


2006/9/27(水) 落日の始まり・・・安倍政権誕生

気心の知れた仲間で内閣を組織するのも悪くないと思います。仲の良いメンバーを閣僚に据えた内閣が発足しました。安倍晋三氏にとって人生最良の日。そして、落日の始まりです。

官邸主導型の内閣を意識した布陣が敷かれています。これが逆に、安倍氏の自信のなさを表現しているように見えます。重圧を感じながらの人事であったことが分かります。下手をすると「引きこもり内閣」になり、外部に敵をつくりながらの政権運営に終始する可能性もあります。小泉政権のように「チャンバラ」をすることにもならないと思います。

霞ヶ関の省庁や諸外国との無用の摩擦を起こす懸念もあります。小泉氏のように孤独かつ強運の勝負師であればともかく、「促成栽培」の安倍氏にはきつい展開になるでしょう。

組閣人事を見る限りでは、ブレーキを踏める人物がいるのかどうかが分かりません。ブレーキ役がいれば、上記の懸念はなくなります。そのような人物がいなければ、ブレーキの利かない暴走内閣になる可能性があります。

涎を垂らして集まってきたメンバーがどこまでやるのか。52歳の総理大臣。実力があれば、もしくは実力を付ければ、大きく飛躍するでしょう。しかし、足らざる所を補う心掛けがなければ、内閣が短命に終わるだけでなく、政治家として転落の始まりになる可能性があります。私は、後者だと思っています。

涎を垂らして近寄った方々が、ハンカチで口を拭いながら立ち去っていく近未来の光景が目に浮かびます。「人気がある」ことが人気の源泉である安倍晋三氏。つくられた人気が崩壊する日が近づいています。


2006/9/26(火) 断末魔の自民党を象徴する幹事長発言

中川秀直幹事長。ソフトな語り口とは裏腹に、民主党との対決姿勢が鮮明です。

<参院選は数合わせの民主党と自民党のどちらが国民のためになるかを前面に出して勝利を目指す。>
<「古い自民党」と「古い社会党」の連合のような民主党との違いを明確にすべきだ。>
<法案の修正協議のドアは常に開けていくが、(民主が)選挙目当ての何でも反対の抵抗政党になるなら粛々と審議を進める。協議に応じるか否かで(民主の真意が)支持母体の既得権益を守ることにあるのかどうか明らかになる。>

以上、昨日の中川発言抜粋(毎日新聞より)。

自民党のような大政党の幹事長というのは、三国志のハイライト、五丈原における魏の司馬懿仲達のような存在が1つのモデルとして想定される立場です。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事がありますが、実際には、蜀の弱点を見抜いて徹底した持久戦に持ち込んだ司馬懿の作戦勝ちでした。

自民党幹事長が、野党の攻撃に対して、じっくりと受けて立ち、名より実を取って政治を前進させるという手法を取ることが不可能な時代に入ったということだと思います。断末魔の自民党を象徴する幹事長発言。

五丈原なのか、関ヶ原なのか。来年の参議院選挙は面白い戦いになります。


2006/9/25(月) 「猫の手は借りても、嫁の手は借りない」・・・「ファーストレディー報道」を考える

独身の小泉首相の後継総理になる安倍氏。その奥さんに関する報道が過熱しています。「ファーストレディーはどんな女性か」ということを記事にしたり放送したりすると、「視聴率」が取れるようです。

このような傾向は、「庶民」が政治家に親しみを覚える意味合いはありますが、政治家に適した人材の多くを失うことになり、国家的な損失になると考えます。一般人が政治家になろうとした場合、何が一番の障害かと言えば、家族とりわけ配偶者の反対です。

女性が政治家になる場合であれば、夫が邪魔をしなければ何とかなります。しかし、男が政治家になる場合は、「奥さんはどうした」という話が必ず出ます。「本人はいいが、奥さんは愛想がない」とかどうとかが、口の端に上ります。このことが予想されるため、奥さんが猛反対することになります。出たがりの女性ならともかく、一般の女性は、夫が政治家志望だと知っていれば結婚しなかったと言うでしょう。「山内一豊の妻」など、滅多にいるものではありません。

「ファーストレディー報道」は、政治家一家が家業として政治を行うことを礼賛することにもなりかねません。奥さん云々という「参入障壁」を除去する工夫がなければ、政治の劣化を食い止めることは困難です。良い家庭であることと、政治家の家庭として売り出すこととは別物だということが常識にならなければなりません。

そのことを考え、私はかねてより、「猫の手は借りても、嫁の手は借りない」をスローガンにしていました(誤解を招くので、そんなに派手には言っていませんが)。どうか、心ある方々には、このスローガンを援用していただきたいと思います。「著作権」は主張しませんから。

「家族を説得できない者が、国民を説得できるか」などと大袈裟に説教する方もいるでしょう。しかし、国民を説得できても、家族を説得できないのが現実です。


(参照)
2005年5月24日「四国の星」HP、「政治家の家族」


2006/9/24(日) テレ朝よ、お前もか・・・権力者礼賛番組に見るテレビの行き詰まり

昨日テレビ朝日系で、安倍晋三礼賛番組をドラマ仕立てで放送していました。権力者にとって都合の良い断片だけを切り取って映像化すれば、しかもそれを中立を装って行えば、政権浮揚の効果が著しく高いものになります。

こういう提灯番組ができるのは、先日も述べた「権力者が美しく見える病気」に罹っているからです。戦争中の翼賛記事も、単に検閲が厳しかったというだけではなく、報道機関にとって権力ないしは軍部が美しい存在であったということも大きな要因でしょう。

もうひとつ背景を推し量ってみると、放送局の経営問題が横たわっているのではないかと思われます。おびただしい消費者金融のコマーシャル。不条理な金利を貪る業界に頼らざるを得ない放送局の経営には不健全なものを感じます。デジタル化を控え、かなりの投資が必要になっています。インターネットに押されている面もあるでしょう。戦争礼賛記事を書いた戦前・戦中において、新聞社の経営問題がその背景にあったと言われています。

放送局が身も心も権力に委ねざるを得ない状況ができあがっているのはないでしょうか。それにしても、あまりにもみすぼらしい番組を見せられてしまいました(見てしまいました)。「テレ朝よ、お前もか」。暗澹たる思いです。


(参照)
9月20日:「権力者が美しく見える病気に冒された日本テレビ


2006/9/23(土) 違憲vs非常識・・・都教委「通達」への違憲判決

東京都教育委員会が、入学式や卒業式で教職員が国旗に向かって起立し国歌斉唱するよう「通達」したのに対し、都立学校の教職員ら401人が都と都教委を相手取り、通達に従う義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟の判決が21日、東京地裁でありました。

難波孝一裁判長は、「通達や都教委の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」との違憲判断を示し、教職員に起立や国歌斉唱の義務はなく、処分もできないとする判決を言い渡しました。また、慰謝料として1人当たり3万円の賠償を都に命じました。

都教委は2003年10月23日、都立学校の各校長に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」という文書を通達しました。国旗に向かって起立、国歌斉唱、その際のピアノ伴奏、こうした職務命令に従わない場合に服務上の責任を問われることを教職員に周知――という内容で、これに従わず懲戒処分を受けた教職員らが提訴していました。

以上、報道。

(コメント)

「国旗・国歌法」が制定された後、都教委の暴走が始まりました。「国旗・国歌法」は単純明快な法律で、「国旗は『日の丸』、国歌は『君が代』」と定めただけのものです。それを前提とした強制が認められるものではありません。

しかし、国歌と国旗に対する敬意がなければ、国家と国民との良好な関係を築くことは困難です。現場の教師は、自己の内心の問題はさておき、生徒に対しては国家と国旗に対する礼儀を教えるべき立場にあることを自覚すべきです。「通達」に準拠するかどうかは別として、最低限の礼儀をわきまえた式典を行う必要があります。

そうだとしても、これが強制であって、服務規律違反に問われるというようなものであってはならないと思います。「国旗・国歌法」の審議の過程から見ても、都教委の通達には問題があります。東京地裁の判決は妥当であると考えます。

しかしながら、教師の皆さんには常識的な判断が必要です。自己の信念だと言って、生徒にそれを強要する結果になっては、「都教委の暴走」を批判できなくなるのではないでしょうか。通常の場合、生徒は先生を選べません。先生の言うことを素直に聞く生徒が大半です。そうであればこそ、自己の信念はさておいて、社会の「定説、通説」を教え、常識的なところで式典も挙行すべきです。式典はきちんと行った上で裁判を起こすのなら、それは大人の態度です。

この「事件」。東京都および都教委には、違憲・違法の行為を行った重い責任があります。対して、教師側は非常識だと思います。「違法行為を平然と行う東京都、都教委」vs「非常識教師」のくだらない争いだと思います。

もちろん、罪深いのは東京都であり、ファシズムの走狗・都教委です。訴えを起こした東京都の教職員の皆さんにも一言。「思考停止するな。自分の頭で考えろ!」。


(参照)
平成18年5月31日:「卒業式妨害への罰金判決・・・常識で考えよう
平成18年5月21日:「『国旗・国歌法』における暴走の解明が必要


2006/9/22(金) 「団塊ネット」と地方自治の刷新

民主党・菅直人代表代行の主宰する「団塊党」や市民グループの有志らが、来春の統一地方選に向け「団塊世代を地方議会に送るネットワーク」(団塊ネット)を立ち上げるとの記事を読みました。政策などで一致する人を「公認」し、必要に応じて資金提供したり、選挙運動の指南をしたりする支援策を検討しています。年内100人の公認を目標。 

公認の条件は、(1)原則1950年以前の生まれ(2)定年のある職場で働いた経験がある(3)地方議会で、雇用における年齢差別の撤廃や、団塊世代の助け合いを進める人、等。現職や新顔、党派を問わず申請を受けて、団塊ネットの幹部が審査します。 

賛同者はシンクタンクの幹部や地方自治経験者らから広く募り「選挙資金ファンド」を設立。資金調達が困難な人などには30万〜70万円の選挙資金の提供も検討しています。落選したら返却不要ですが、当選したら5割増で返し、今後の貸与資金とします。 菅氏は賛同人の一人として「側面支援していきたい」としています。

(コメント)

3人優秀な議員が出れば、地方議会は活性化します。企業で培われたものの見方を活かして活動すれば、自治体職員もうかうかできなくなり、議会が緊張感のある場になるでしょう。2期ないし3期、頑張ってもらえばいいと思います。

古いしがらみの中で自治を継続していても、地方に未来はありません。取り分け、人口減少地帯では、新しい血が自治に注入されなければジリ貧になります。

「優秀だった青年が都会に行ったが、彼は今どうしているだろうか?そろそろ定年ではないか。」そういう心当たりがあるならば、「議員として帰ってこないか」と呼びかけてみてもいいのではないでしょうか。地方議会はボランティア議員が担うというのが一つの方向だと思っていますが、それなりの報酬で人材を引き寄せるという方法もあると考えます。人材枯渇が地方の未来を奪うという危機感を共有しなければならない時代に入りました。

「団塊ネット」は、都市部で盛んになることが予想されます。人口減少地帯でもこの手法が活かされるよう期待します。


2006/9/21(木) 「内閣の支持率」と「知事の支持率」の差

18日の日本テレビ系の再現ドラマ「内閣総理大臣小泉純一郎 歴史に残る2000日 5つの謎を解く」は、異様な権力者礼賛番組でした。よくもここまでと思うほど権力者を美化した内容。昨日そのことを書きましたが、その後で、これは地方ではよくある現実であることに思い至りました。

知事の支持率は60〜70%が基本であるとも言われます。地域差はあるでしょうが、地方の報道機関は特段のことがなければ知事批判に力を入れることはありません。報道が力を入れて批判しない限り、県民が知事の資質に疑問を持つ機会はありません。議会が総与党化している中で、知事の発言がそのまま県民に流される状況が続けば、県民の意識としては故郷の風景を見るが如く、違和感なく知事を眺めることになります。

これとは反対のことが長野県で起こりました。議会の圧倒的多数派が知事を引きずり降ろそうとする状況下で、賛否相半ばする問題に果敢に切り込んでいった田中康夫前知事。田中氏は敢えて報道機関とも対峙し続けました。報道機関が批判記事を流し続けることで、知事の立場は流動化していきました。利権維持の反知事連合と知事支援派の県民の地力の差が、今夏の知事選の結果となって表れました。

従来の国政は、政権批判が常態化する中での運営が当然視されていました。日本のような長期政権の国では、国家権力は常に批判にさらされてはじめて健全であり得ます。支持率40%なら上出来。ところが、小泉政権では違う流れができ始めました。政権を鋭く批判する評論家は、森田実氏のように番組に出られなくなりました。アリバイ的に批判してみたりしながら大筋で現政権を承認するスタンスが取れる世渡り上手の評論家が主流になりました。首相のコメントが無批判に垂れ流され、「首相対国民」と「知事対県民」とが相似形になってしまいました。

その究極の姿が、日本テレビの小泉礼賛番組。マスコミが政府広報機関になっていった5年半。報道機関の命とも言うべき批判精神が衰弱してしまいました。


2006/9/20(水) 権力者が美しく見える病気に冒された日本テレビ

自民党総裁選を盛り上げる意図だったのでしょうか。18日に日本テレビ系で放送された小泉純一郎首相を主人公としたドラマは異様でした。タイトルは、「内閣総理大臣小泉純一郎 歴史に残る2000日 5つの謎を解く」。日本テレビ政治部の目から見た政治の舞台裏を再現ドラマにし、その後で今回の総裁選候補者3名に質問するという内容。

現役首相を扱ったドラマは異例です。しかも、政治部記者が革命の目撃者のように目をキラキラ輝かせて驚き続ける様は、まるで北朝鮮のテレビ番組のようでした。権力者が美しく見える病気。日本テレビは、この難病に罹っています。重篤であると申し上げておきます。

格差が拡大し、地方は疲弊している現状。5年半の小泉政治の負の遺産に目を向けなければならないときに、権力者礼賛番組をつくるセンスにはあきれました。


「四国の星」HP、2005年10月18日の「一言」を再掲します。 

<権力者が美しく見える病気> 

独裁政権やカルト宗教では、大衆に異常心理が働くようです。権力者を崇め、権力者の行動を美化していく作業が加速していきます。果ては、権力者の美点だけが強調され、権力者に気に入られるための競争がおこります。

権力者が美しく見える病気です。現在のマスコミがこの病に侵(おか)されています。治りにくい病気のようです。治ったときに生じる後悔の念も甚だしいようです。

戦前・戦中の体験から学んだはずですが、60年の歳月とはそういうものなのでしょうか。


(コメント)

「では、あなたは権力者が醜く見える病気ではないか?」こんな反論が予想されます。それに対しては、民主主義社会を構成する「市民」としては、「国家権力=善」という発想より、「国家権力=悪」から出発して物事を考える方が健康だとお答えします。自由・平等の理念を実質化していく発想を持つならば。


2006/9/19(火) 飲酒運転の論理と損得計算

飲酒運転の事故が次から次へと報じられています。世間を騒がせる大きな事故があっても、目が覚めないようです。

これは要するに、飲酒運転が「生活の必需品」として常習化したものになっているからであろうと思います。「飲食費」+「移動費」=「飲酒の費用」であると考えられない方が多いということでもあります。

常習的飲酒者は、これまでも日常的に飲酒運転をやってきたが何事もなかったので、今回も大丈夫という発想になってしまいます。ある番組で、テレビカメラが飲酒者が車を発進させようとしている現場を写していました。かなり酒を飲んでいると思われる男が、記者の制止を振りきり、罵声を浴びせて発進してしまいました。

「関所」をつくることまで考えないといけないのかもしれません。轢き逃げと飲酒運転の厳罰化は必要です。加えて、社会奉仕命令も有効であると思います。刑務所に入るより、長期の社会奉仕を課すことの方が飲酒犯罪者には厳しく感じられるでしょうし、改善効果もあると思います。

それ以上に効果的だと思うのは、課税強化です。付加刑として、一定期間あるいは一生、通常よりも高い税金を課すのです。税の控除をなくしたり、税率を○○○%引き上げるという措置を取ります。飲酒運転が発覚しただけで税金が高くなるのだとすれば、一定以上の収入がある人には効果的です(30万円や40万円で済む話ではなくなります)。低所得者でも、税の控除がなくなれば大打撃です。

「飲酒運転の経費」が高く突くと身にしみて分かるような仕組みでなければ、常習化・一般化している飲酒運転の撲滅は難しいと思います。


(参照)
9月13日「ひき逃げ=懲戒免職、飲酒運転=諭旨免職ではどうか


2006/9/18(月) 「0.01%」を見逃さない緻密な社会が個人を守る

匿名の議論が横行するネットの世界では、断定して物を言う人が増えているような気がします。反撃を食らわなくてすむ状況が無責任な言論を許容するのでしょう。危険な兆候だと思います。

「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則に意味が出てくるのは、多くの人が「あいつが犯人だ」と思う事件においてです。昨日述べた「99.99%黒:0.01%白」の状況下で問題になってくるのです。

「被害者がいるからあいつが犯人だ」という議論。「登場人物2名のドラマ」を想定されるわけですが、事実というのは掘り下げていくと難しい場合があります。痴漢事件で被害者が「この人に間違いない」と思って叫んだ事例で、事実審理が進んで現場を再現して検証すると、「別の手」が被害者にさわっていたと考えないと辻褄が合わない場合もあります。「被害者が言っているのだから間違いない」とは断定できないのです。「周りの人が取り押さえた」というのが、犯行を目撃して取り押さえた場合もあれば、被害者の声に呼応して行動する場合もあります。

「そんなことあるわけない」と思いがちな人は、安易に「四捨五入」の論理を展開します。「多分そうだろう」は「絶対そうだ」となり、「真実」になっていきます。「そうでないかもしれない」は切り捨てられるわけです。この論理の被害者が、北朝鮮拉致被害者とその家族の皆さんなのです。

20年前(10年前でもそうでした)、「国家が人さらいをすることなどありえない」とほとんどの人が断言し、「家出だろう」「駆け落ちだろう」「自殺だろう」という誹謗中傷の中で、拉致被害者の家族の皆さんの叫びに耳を貸す人はほんの一握りでした。今や、北朝鮮が犯人であることは小学生でも知っています。

「0.01%」に目を向けない社会は、少数者にとって地獄になる可能性があります。「0.01%」を「0%」にする作業も根気が必要です。「0.01%」を「100%」にする作業も大変です。しかし、この作業を嘲笑う社会は個人を抹殺する非情な社会になります。個人を大切にする社会とは、「0.01%」に目を向ける社会です。

誰もが「検察官」兼「裁判官」になる社会になってきています。別の見方をすれば、煽動しやすい社会に変質しつつあるのではないでしょうか。「植草はクロだ」と断定して、その人にどんなメリットがあるのかということについても、考えてみる必要があります。


(参照)
9月16日:「『現行犯』とは・・・植草一秀教授逮捕を考える
9月17日:「99.99%:0.01%・・・『植草一秀教授現行犯逮捕』を考える」


2006/9/17(日) 99.99%:0.01%・・・「植草一秀教授現行犯逮捕」を考える

真っ黒だ。それ以外に何がある。昨日の私のブログに対して、多くの方がそう思われるかもしれません。

今回の事件についての報道は、警察が言ったことをそのまま報じたものです。それ以外の情報を得ている人もいるかもしれませんが、私が新聞、テレビ、ネットで調べた限り、現時点で、「警察がそう発表した」という以上の情報はありません。

破廉恥犯罪についての報道は、「読者」が妄想を逞しくするので、信じられる度合いが強くなりがちです。しかし、「事実だろう」というのと「事実」ないしは「真実」とは別物であるという謙虚さを持っておかないと、とんでもない過ちを犯すことにもつながります。

今回の事件報道を知って、まず思ったのは、同一人物が同一傾向の事件で何度も被疑者・被告人になり、しかも無実であるという可能性は極めて低いということです。少なくとも今回の事件に関しては、99.99%「黒」であると考えるのが普通の感覚です。私の以前の主張もひっくり返る話だなあというのが率直な感想です。しかし、検証できていない部分もあります。

警察発表と報道された「事実」を前提に世の中は動きます。そこに飲み込まれた個人は無力です。痴漢騒動がよく新聞紙面を飾ります。多くは「現行犯」ですが、無罪になるケースもあります。「事実」の確定が難しいのです。

警察発表がそのまま報じられた段階で、「事実」だと断定することは避けたいと思います。それでいいのなら、警察の「裏金」は、警察が認めたもの以外はないはずです。太平洋戦争当時の「大本営発表」によると、数多くの米空母・戦艦が撃沈されました。その報告を信じた連合艦隊が、沈んだはずの敵艦船を発見して驚いたという話すらあります。「死んだはずだよお富さん」と言って笑うことのできない話です。

もちろん、現在と太平洋戦争当時とは時代が違います。しかし、「99.99%黒:0.01%白」の状況下での、0.01%の重みに対する配慮がない社会は危険だと思います。「証拠」→「事実」という筋道だけなのか、別の可能性があるのか考え、否定的な筋道を全て否定したところに「事実」があると考えることでやっと、バランスが取れてくるのだと思います。

沖縄返還に際して日米に密約があったとスクープした毎日新聞の記事が、記者と外務省職員との男女関係の問題にすり替えられてしまったことがありました。センセーショナルな方向に世間の関心が集まります。センセーショナルな報道に流されて本質を見失う危険についても指摘しておきたいと思います。

植草教授の政府批判には鋭いものがあります。そのことと、彼の「犯罪」は別次元のものなのですが、これが一緒くたにされ、彼の経済理論や評論の価値まで貶められてしまうのは極めて残念です。


2006/9/16(土) 「現行犯」とは・・・植草一秀教授逮捕を考える

(参照)
<「四国の星」HP 2005年7月31日:「野中広務氏が植草一秀氏の事件に言及」 

昨年、7月3日、8月31日、今年の3月23日の「一言」で取り上げた経済評論家・植草一秀氏に関する事件。

昨年4月、神奈川県警鉄道警察隊が横浜駅から尾行して、品川駅の昇りエスカレーターの途中で植草氏が手鏡でスカートの中を覗こうとしたとして、東京都迷惑防止条例違反で逮捕・勾留し、起訴した事件のことです(地裁判決有罪、植草氏控訴せず)。

7月27日、シンポジウムで松山市を訪れた元自民党幹事長・野中広務氏が、意外にも植草一秀氏の事件に言及したそうです。権力の意図が働いているのではないかということです。厳しい政府批判をしていた植草氏。繰り返して言いますが、この事件には不審な点があります。

権力の中枢部にいた人物が私と同じ感想を持っているということです。何でもありの小泉政権。怖いものを感じます。 >


(コメント)

何度も植草教授のことを取り上げてきました。植草氏が電車内での痴漢行為(東京都迷惑防止条例違反)で現行犯されたというニュースが大々的に取り上げられました。

私の周辺にも「現行犯」=真犯人という考え方の人が多いので、一応コメントしておきます(この段階で、真偽についてのコメントは差し控えるべきですので、対象を絞り込んでみます)。

もし私が犯罪組織のトップで、気に食わないAという人物を社会的に抹殺したいと考え、とりあえず「犯罪容疑者」に仕立てようと思えば、ことは簡単です。相互に関係のないB、C、Dに依頼して(金を払い)、Bが被害者、C、Dが目撃者という状況をつくりあげ、「現行犯」で逮捕させればいいのです。「現行犯」は私人でも可能な行為です。

令状主義の例外として「現行犯逮捕」が認められています。現行犯逮捕が認められるのは、犯罪の実行が明白で、司法判断を経なくても誤認逮捕の恐れがないからだとされています。「私人による現行犯逮捕」自体は、逮捕が合法であるという意味しかありません。「嫌疑」については、その後の捜査で明らかにされます。嫌疑ありとされれば、起訴という段階に入ります。

冤罪事件の多くは、「あいつは絶対に怪しい」から始まっています。「真実」の探求は困難です。警察発表と報道を根拠に真実であると断定することの怖さを一番感じたのは、松本サリン事件での当初の「容疑者」、河野義行氏の場合です。

「現行犯」=犯人という判断が軽率だったという場合もあることだけは指摘しておきます。
今回の植草氏の場合についてコメントすれば、疑われるような状況に身を置いていたこと自体の無警戒さが非難されても仕方がないと思っています。


2006/9/15(金) 「小泉政権を評価」64%・・・「免疫」はできたのか?

小泉政権を評価する人が64%、という毎日新聞の世論調査結果が出ています。他の調査でも小泉政権の支持率は高いまま推移しました。ところが、政策への評価は高くないという調査結果もあります。

従来型の政権支持率ではないという見方も成り立ちます。小泉氏のキャラクターに対する支持であって、政策は二の次になっているということです。自殺者が3万人台に乗ったままであり、地方も疲弊しています。高齢者や弱者は露骨に切り捨てられました。その中での高支持率というのは、きちんとした分析がなければ、後々、我が国の民主政治にとって致命傷になる可能性を秘めています。

この5年半、報道機関が論理的にものごとを突き詰めていく作業を放棄した部分があります。権力に取り込まれてしまいました。情緒に流れやすい社会になり、ファシズムに道を開く温床が出来上がりました。昨年の「郵政選挙」では、「刺客」だ「くの一」だとマスコミが騒ぎ、政治に無関心だった若者が面白がって投票所に行ったということが指摘されています。「B層」=(IQが低く、具体的なことはわからない、主婦層・子供・シルバー層)への働きかけが政治宣伝に有効であるという議論も出てきました。

インカ帝国は16世紀、200人弱の手勢を引き連れてやってきたスペイン人・ピサロにあっさり滅ぼされてしまいました。ピサロの卑劣かつ残忍な手法に対抗する手段を、インカ帝国の人たちは持ち合わせていませんでした。「盲点」を突かれたという面もあります。「悪に対する免疫」がなかったための悲劇であるとも言えます。

日本史上最も無責任な政権が5年半も存在し、しかも高支持率のままの終焉。民主主義の「盲点」が突かれました。その手法が有効であるとして、「新政権」が継承しようとしています。そして、恥じることなく「新政権」に群がり、地位を得ようとする自民党国会議員達。ファシズムに雪崩れ込もうとする政治に対する「免疫」ができないと、この国は何処へ向かって漂流することになるのか分からなくなります。

(参照)
8月30日:「個人の弱さの反映としての日本型ファシズム」


2006/9/14(木) 小沢一郎氏の主張する「300自治体」を考える

小沢一郎氏は、「日本改造計画」以降、300自治体(市)を構想し、地方自治体は「市」だけでよいという考え方を取っています。

新著「小沢主義」が手に入らないので(こういうことに触れているのかどうかも分かりませんが)、「日本改造計画」を前提とすると、300自治体を、「地方中核都市とその周辺」「大都市」「大都市周辺の衛星都市」などに類型化して「市」の規模を決めるとともに、それに対応して権限や財源に差を設けるという発想です。

「市」の広さや機能を決める際の基本的な考え方として、第1に、その地域の中に市部と郡部、農業と工業、生産地と消費地、労働の場とレジャーの場、職場と住居など、補完関係にあるいくつもの要素を包含しており、総合調整の妙味を発揮しながら市民の快適な生活環境づくりが実現できること、第2に、市民の帰属意識や地理的条件から見て、一体的な生活圏が形成可能な範囲であること、を挙げています。

私が従来主張している、住民自治から出発して自治の単位を決めるという考え方からすると、随分広域の自治だなと思います。ただ、「県」という中間団体がなくなるので、これはこれで面白いと思います。小沢氏が国の権限を限定し、補助金を地方に一括交付するという考え方を堅持しているので、基礎自治体はかなりのことをやれるでしょう。

身近なことは全て地方でやる。権限・財源も地方に移す。これこそが「骨太」な発想です。小泉政権の「骨太の方針」というのは発想がチマチマしており、国があれこれ地方政治に口出しするばかりか、地方に財源や権限を渡さず、仕事(義務)だけを押しつけ、「骨抜き自治」を推進する迷惑な「姑政治」に過ぎません。

「県」がなくなり「青空」が見える爽快さと、住民と自治体との距離が開くこととの兼ね合いをどうするのかが問題です。しかし、魅力的な提案ではあります。既に、中途半端で理念もない「平成の合併」が進行してしまっているので、小沢氏の提案の方向に進んでいく方が現実的かもしれません。「県」を一旦否定することで、「県」の意義・機能を再評価することも可能になるし、「道州制」についても、自民党が企む「県の合併」=県のリストラ(名前は「道州制」)を阻止することができます。

小沢氏の考え方を前提とした場合、基礎自治体を「地方政府」と考え、「地域(狭域)自治」とのバランスを取る発想が必要になってくると思います。


2006/9/13(水) ひき逃げ=懲戒免職、飲酒運転=諭旨免職ではどうか

公務員による飲酒事故のニュースが連日報じられています。飲酒事故が激増したということではなく、報道が過熱してきたという面が濃厚です。社会の意識が変化してきたことの表れでもあります。「報道機関が報道しなくなったら沈静化する」と考えるのではなく、今の内にきちんとした対応が各方面に求められます。(私自身は飲酒運転をしませんが、対応が甘かったとの反省があります。)


福岡で起きた3幼児死亡事故に象徴されるように、平和な家庭が一瞬にして破壊されるような悲惨な事態を引き起こす可能性のある飲酒運転は、徹底的に取り締まられなければなりません。

刑事処分については、飲酒運転した者が一旦逃げて飲酒を誤魔化し、「危険運転致死傷罪」の適用を免れようとする事例、所謂「逃げ得」が横行することが懸念され、ひき逃げ重罰化の方向で検討がなされています。同乗者、飲酒を勧めた者や飲食業者の扱いも焦点になります。

刑事処分の面での重罰化と併行して、公務員の飲酒運転の場合に、飲酒運転撲滅に向けて社会を先導するという観点から、処分の厳格化が求められます。ひき逃げは飲酒の有無を問わず「懲戒免職」→退職金なし、飲酒運転は「諭旨免職」→退職金あり、という形にすべきだと考えます。退職金を担保に、「逃げ得」を防ぐという発想です。現在の世論からすると、これでも甘いと言われるかもしれません。

公務員の処遇は社会に影響を与えます。「育児休暇取得」というような労働者の権利を拡大するような課題については、公務員から先に権利を認めていって民間に広めていくという考え方が必要です。その代わり、不祥事を起こした場合の責任の重さも自覚する必要があります。公務員については、権利を拡大し、責任を重くするのです。

警察や岐阜県などの裏金事件関与者の処分についても、「飲酒運転より軽いのか」という議論が起きて当然です。


2006/9/12(火) 斉藤投手は早稲田へ・・・優秀であるとはどういうことか

早実の斉藤佑樹投手がプロ入りせず、大学進学の意思を表明しました。今プロ入りしても通用しないと自己分析し、大学4年間で全体のレベルを1ランクでも2ランクでも上げたいという判断です。賢明だと思います。

甲子園の決勝戦再試合は、斉藤投手が打ち込まれるのではないかと予想した人が多かったのではないでしょうか。ところが、再試合の9回になっても147キロの速球を投げ込むスタミナには仰天しました。

斉藤投手を観察して、優秀であるとはこういうことなのだということを教えてもらいました。第1に素直さ。第2に課題を克服する努力。第3に自己制御能力。

一般の学習においても、素直に吸収する子供は伸びていきます。しかし、壁に突き当たることもあります。そのとき、冷静に課題を克服することが次の飛躍につながります。問題は自己制御能力です。これがないといくら優秀であっても、大観衆の中、状況がめまぐるしく変わる「試合」で勝利をもぎ取ることは困難です。

スポーツ選手の場合、克服しがたい病気や怪我のリスクがつきまといます。そうした不幸がない限り、斉藤投手は早稲田でもプロでも成功するだろうと思います。こういう選手を見たのは、1983年、PL学園の桑田投手(現巨人)以来です。

1年生の桑田投手が外角低めに140キロ前後の速球をピタリと投げ込み、カーブを交えて、ストライクゾーンに入れたり外したりするのを見て、これができれば高校野球の頂点に立てるのだろうなと感心しました。桑田、斉藤どちらとも、どの分野でも成功可能な人材です。是非とも、「人生」で勝利をもぎ取っていただきたいと思います。

斉藤君は、世のお母さん方に大人気のようです。「あんな息子がいれば」と思うのかもしれません。しかし、「あんな息子」に育てるのが大変なのです。


2006/9/11(月) 愛子様の相撲観戦

<皇太子ご一家が10日夕、東京・両国国技館で、大相撲秋場所の初日の取り組みを観戦した。長女・愛子さまは力士の名前や出身地を覚えたり、職員を相手に相撲の取り組みを再現したりするなど相撲に興味を持っているが、実際に観戦するのは初めて。

ご一家は2階の貴賓室で、中入りの後半から弓取り式まで観戦。ワンピース姿の愛子さまはご夫妻の間に座り、勝敗ごとに結果を星取表に書き込み、時には双眼鏡を手に取ったりして楽しんでいる様子だった。>(以上、朝日新聞) 

子供の頃、奄美大島出身の横綱・朝汐が大好きで、テレビで一喜一憂していました。栃若時代の一方の雄・若乃花が憎たらしいほど強く、朝汐の不甲斐なさに切歯扼腕した記憶があります。負けたときの泣きそうな表情が何とも言えませんでした。

愛子様が相撲ファンであることは以前から報じられていましたが、昨日の映像では楽しそうな笑顔が見え、子供らしい愛くるしさが微笑ましく感じられました。曾御祖父様・昭和天皇が相撲好きだったことも思い出されます。

聡明な「愛子天皇」を期待する人も多いだろうと思います。そうだとすると、皇室典範の改正が必要になります。皇室典範第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」とあります。「男系の男子」をとりあえず「男系の子」として関連条項を整理すれば、「愛子天皇」は可能です。ここまでは、「男系」論者との妥協が可能です。

そこから先は、政治的危険領域に入ります。「紀子さま、男子ご出産」で先送りが可能になった「女系天皇」の議論ですが、「女性天皇」問題については、数年で結論を出しておいた方がいいと思います。「女系」問題は先送りして、時代の変化を見つめながら考えれば良い結論が出るでしょう。

「男系」論ないしは「男系男子」論について言えば、結果として直系(女子)よりも傍系(男子)を重んじることになり、国民が尊敬できる皇室にはなり得ない可能性を秘めています。

昭和天皇が「人間宣言」を行い、「ミッチーブーム」(美智子妃)を経て、国民が天皇家を構成する方々の人柄の魅力に惹かれて敬愛してきた昭和後期以降の歴史をどう見るのかを考える必要があります。「男系」論を展開していくと、究極の選択として、「天皇家より国家ないしは伝統が大切」というところまで行き着いてしまうのではないでしょうか。

ただし私は、愛子様に「婿殿」は気の毒だという意見です。女性として幸せな人生を送っていただきたいと願っています。

(参照)
9月7日:「男系男子」論の封印


2006/9/10(日) そして誰も支持しなくなった…

<自民党総裁選の告示後初の街頭演説が9日夕、JR秋葉原駅前で行われた。安倍晋三官房長官、谷垣禎一財務相、麻生太郎外相のポスト小泉候補のそろい踏みとあって、週末の秋葉原に「1万人以上」(主催者発表)の聴衆が集まったが、かつての小泉フィーバーでの盛り上がりには遠く及ばないというのが実感だった。… >

産経新聞の記者はこのように書いています。「10対0」の試合のビデオテープを見るような自民党総裁選。候補者のネクタイの柄くらいしか見るべきものがない「選挙」は、ポスト狙いの自民党政治家が雪崩を打って安倍氏支持に廻るという、見苦しい話になってしまいました。

「安倍支持」の魂胆が余りにも見え透いているので、組閣が終わったら急速に遠心力が働き始めることが予想されます。「国民の支持」が繰り返し報じられていますが、これも「支持率に対する支持」という側面が強く、安倍晋三という政治家への支持という意味合いは乏しいと思われます。

安倍氏について語られることは、ほとんどが祖父・岸信介と父・安倍晋太郎についてであり、本人の経歴や政策は後回しになっています。北朝鮮の拉致問題がなかったなら、何も語るべきものがない政治家です。「支持率」が下がれば、バブル状態の株価が下落するような形で螺旋状に支持がなくなってくるでしょう。

小泉純一郎という総理大臣は、見識がない点では天下一品であり、屁理屈とはったりで世渡りをしただけの政治家です。しかし彼は、森政権下での国民の怨嗟の声を代弁する形で自民党総裁になり、マスコミを操縦支配して高支持率をキープし続けました。そこには、類い希なパフォーマンスがありました。

「安倍政権」が小泉政権の綻びが目立ち始めた段階で登場すること、安倍氏が国民の支持をつなぎ止められるだけの「芸人」でないことを合わせ考えると、マスコミを操縦支配しようとしても、高支持率の維持は困難だと思います。参院選敗北となった場合には、「支持者」は雲散霧消するでしょう。その危機感が安倍氏を「大博打」=憲法改正に駆り立てる動機になるのではないかという懸念があります。

野党にとっては、最も倒しやすい総理大臣の登場です。しかし、「憲法改正」を旗印に「劇画」のような選挙を仕掛られる危険も迫ってきました。チャンスなのかピンチなのか。


2006/9/9(土) 味方でなければ敵なのか

宗教上の原典を絶対視する主張・態度を原理主義と言います。原理主義の発想を貫くと、「味方でなければ敵である」という結論が出て来やすくなります。「正しい結論」なのだから、「味方」は当然増えてくるはずです。「敵の間違い」を指摘して正しい道筋を示していれば、「誤った思想」が克服され、「正道」に導かれることになります。

しかし、政治において「原理主義」を貫徹すると、「味方」が「純化」されて減少することになるのが一般です。政治における原理主義は、「教条主義」と言い換えることも可能です。この立場は、一度考え方が固まれば、後は「志操堅固」でありさえすれば(もちろん、大変難しいことです)、「正しい人生」を歩むことができます。

世の中がどう変わろうとも、自分の信念は貫くのだという考え方は立派です。しかし、そこには「思考停止」という落とし穴があります。「自明の理」だと思う領域の多い人ほど要注意です。ゼロから自分の頭で論理を構築し直す作業をやらない人は、様々な考え方を「誤り」「邪教」と決めつけることで精神の安定を図ろうとします。これは、ある意味で精神の堕落を招きます。即ち、自己の論理一貫性が保てれば、結果はどうでもいい(世の中がどうなってもいい)という、ある種の無責任につながります。

政治的に物事を前に進めようとするならば、「味方でなければ敵である」から「敵でなければ味方である」に発想を切り替え、「敵の敵は味方である」というところまで間口を広げておく必要があります。

ナチスが台頭した頃、コミンテルン書記長・ゲオルギ・ディミトロフがコミンテルン第7回大会で「反ファシズム統一戦線戦術」を提起したことは有名です(その後、スターリンにより棚上げ)。現在の我が国の政治状況は、「反ファシズム統一戦線」が必要な段階に来ていると思います。論理的整合性に安住できる幸せな時代を謳歌できるのなら結構ですが、そうではないと思います。「憲法改正賛成!」であれ、「断固護憲だ!」であれ、悪質な国家主義から日本と日本国憲法の平和主義を護るために大同団結し、実質的護憲の立場で「議会の過半数」を制することができなければ、歯止めなき「日本型ファシズム」への道を突き進んでいくことになりかねません。

政界・財界・官界・学界・言論界の「鉄のペンタゴン」(大前研一氏)が我が国を支配し、自己保身・組織維持の論理で集団的無責任が生み出されつつあります。日本型ファシズムの初期段階です。これが軍国主義への道筋になるのか、緩やかな国家の衰退をもたらすのかは不明ですが、国家の危機が進行しつつあることを認めた上での政治決断が国民に求められています。

(参照)
8月30日:「個人の弱さの反映としての日本型ファシズム」

8月23日:「憲法改正」で民主党は惨敗する?

9月8日:「『護憲』が日本国憲法の足を引っ張る」


2006/9/8(金) 「護憲」が日本国憲法の足を引っ張る

来年の参議院選挙で、このままでは負けそうな安倍政権が、「憲法改正」を争点として正面突破を図る可能性があるとの認識が広がりつつあります。衆参同日選挙も視野に入れなければなりません。2007年は、「関ヶ原」になるとの前提で準備が必要です。

民主党のアキレス腱は「憲法改正」であると見られています。旧社会党的発想が克服されないままに大同団結しているしている政党ですから、憲法についての認識で足並みをそろえておかないと、「郵政民営化」の二の舞になります。

日本国憲法を、国家主義的体質を濃厚に持っている安倍政権の野望から護ろうとするならば、従来型「護憲」の発想が日本国憲法の足を引っ張り、利敵行為になるということを自覚しておかなければなりません。真っ正面から「憲法改正是か非か」で戦うと、現在の世論の動向からすると、「護憲」が後ろ向きの政治姿勢に映ってしまいます。物事を単純化したがるマスコミの属性を前提とした、実質的「護憲戦略」がなければ惨敗します。

「イエスかノーか?」と問われれば、「イエス」と断言すればいいのです。「憲法改正賛成。中味は国会で合意を!」、「より平和が確保できる憲法改正を!」、「2010年までに草案を!」等々、対抗スローガンを掲げて憲法問題の争点を無効化し、より生活に近いところ(年金、医療、地方経済等)に焦点を絞り込むという作戦もあり得ます。(「ノー」で戦う方法もあります。足並みが乱れないやり方で、より巧妙な戦略・戦術が必要です。)

「護憲」で生きてきた人たちには、自己の人生を否定するような発想を持ってもらわなければならない時代になりました。少なくとも、「憲法を守ろうと主張し続ける自分が美しい」という自己愛からは解放されないと、実質的な護憲ができなくなるのではないでしょうか。「憲法改正」の「土俵」に上がり、そこで「技」を競うべきです。

「陣地」の張り方を誤ると、護憲勢力崩壊につながります。護憲派の皆さんには、政治は戦いであって信仰告白の場ではないということを自覚し、泥まみれになってでも「護憲」の精神を護っていただきたいと思います。「確かな野党」の皆さんにも、実質的護憲論での政治決断を期待します。

(参照)8月23日:「憲法改正」で民主党は惨敗する?


2006/9/7(木) 「男系男子」論の封印

紀子さま、男子ご出産。お子さまが男女どちらでもおめでたい話ですが、「男子」であるために、政治的な難問がとりあえず先送りされました。

男系でなければ天皇にはなれないという古色蒼然たる議論があり、これに「Y遺伝子」の議論が付加されて、ある程度の勢力を形成している現状では、「女性天皇」はなんとかなるとしても、「女系天皇」まで踏み込むことには大きな政治的なリスクがあります。

昭和初期まで、日本の男は笑わなかったと言われます。安易に笑う男は軽蔑の対象でした。それが今や、お笑い系が大人気です。「あんな醜男に何故…」というようなお笑い芸人と美人タレントとの結婚が当たり前。時代は変わります。

「男子ご出産」は「男系男子」論を封印し、時代の流れの中に拡散する効果があると思います(「馬糞の川流れ」とは言いませんが…)。親王様が現在の皇太子や秋篠宮と同じ年代になられる頃には、「男系男子」論は忘却の彼方かもしれません。「学説」としては残っても、現在と同じ情念でもって語られることはなくなるでしょう。

私は女系天皇を認めるべきだと思います。しかし、女性皇族に「婿殿」は気の毒だなというのが率直な感想です。いかめしい「男系男子」論とは別の角度からの「異論」です。まあ、この点においても時代は変わるか…


2006/9/6(水) 「金は命で返せ」・・・消費者金融と生命保険

消費者金融10社が債権回収のため借り手全員に生命保険を掛けていた問題が先頃明らかになりました。毎日新聞によると、民主党・長妻昭衆院議員の質問主意書を受け、金融庁がアコム、アイフル、武富士、プロミス、三洋信販の大手5社と、契約先の保険会社の双方に聞き取り調査したところ、大手5社で支払いを受けた件数が昨年度1年間で延べ3万9880件あり、このうち自殺によるものは判明しているだけでも3649件に上ることが分かりました。
 
契約後1〜2年以上たった場合は死亡診断書などの提出を省略できるため、今回報告された3万9880件の中には死因が不明のものも多数含まれています。金融庁は、保険金が支払われた総数に占める実際の自殺件数の割合は10〜20%に上るとみています。借り手の大半が加入させられていることを知らず、消費者金融が遺族に死亡確認をせず保険金を受け取っているケースも多いと言われます。

こういう前提があれば、消費者金融としては厳しく取り立てるに限ります。相手を追い込めば、自殺による債権回収の可能性が高まるからです。自主的返済の期待より、自殺=返済の期待の方が大きい場合がかなりあるでしょう。

消費者金融による殺人、保険会社の殺人幇助。こう断じても不当ではないと思われます。借り手の死を予見し、あるいはそれを希望して保険を掛けて自殺に追い込む。保険会社としても、死亡(自殺)確率を計算して採算の合う保険料を設定する。

この保険料の計算方法を是非知りたいものです。一般の死亡率(自殺率)よりも大幅に高く設定していたとするならば、消費者金融が借り手の自殺を予見し、あるいは希望しており、保険会社も自殺を計算に入れていたと考えられます。ハイエナ型商法と言うべきでしょう。

「殺人などと言われるのは心外だ」と言うのなら、保険を掛けるにしても、「自殺不払い」「死因不明不払い」「殺人被害の場合も不払い」を条件にすべきだと思います。それが嫌だというのなら、「緩やかな殺意」ありということになります。

少なくとも、これまでの保険の掛け方は、「公序良俗」に反すると思います。


2006/9/5(火) ハンカチ王子とテロ

今年の甲子園は息詰まる試合が相次ぎ、決勝戦の名勝負は「ハンカチ王子」、斉藤佑樹というニューヒーローを生み出しました。連日の「ハンカチ王子」騒動。当初予定のなかった選抜チームの米国遠征試合が実況中継されています。

その陰で、もっともっと報道されていい事件の詳細を知ることができません。加藤紘一氏実家放火事件の続報はどうなったか。一応、テロを非難する報道はなされていますが、詳細が報じられません。加害者から取材ができなくても、背景や犯人の生い立ち等、通常の事件なら嫌という程テレビが垂れ流してくるワイドショー報道すらありません。

与党と与党政治家が沈黙し、「ざまを見ろ」と言わんばかりの冷淡な雰囲気ができあがりました。少数意見に非寛容であり、かつ、テロに弱い社会、言論界、政界になってきたのではないかという懸念を感じます。犯人の個人的動機であるとか、右翼の中で孤立していたというような矮小な視点でテロを軽視することであってはならないと思います。

テレビでも取り扱われていないわけではありません。多くの人が興味を示す「ハンカチ王子」に画面を奪われて、脇に追いやられているのです。しかしそれでは、「アリバイ的報道」でしかありません。「知る権利」を都合よく理解し、視聴率の取れる報道に流れていたのでは、民主主義社会の崩壊に手を貸すことになりかねません。

戦前の新聞が戦争に賛成したのは、その方が新聞がよく売れたからだと言われています。この教訓に学んでいるのかどうか。テロの風潮は、一度火が付いたら誰も止められません。何重にも封印しなければならない性格のものです。このことが軽視されている現在の「空気」。言論の危機です。


2006/9/4(月) 総理に担いだはいいが…

(朝日新聞より)

自民党の中川秀直政調会長は3日、長崎県大村市で講演し、「民主党の代表選の際の公約などを徹底的に検証し、与野党党首の政策論戦を盛り上げたい」と述べ、近く党内に「民主党政策検証チーム」を発足させる考えを明らかにした。自民党総裁選で優位を固めた安倍官房長官を支える中川氏は、安倍政権発足後の小沢民主党代表との党首討論に向け、党内のバックアップ態勢を整えるねらいがあるようだ。… 

(コメント)

興味深い記事。「安倍政権」の筆頭老中・中川氏が、「安倍・小沢の党首討論」が難所であるということを暗に認めたのです。

旧来型自民党支配は実質5年半前に終わっており、延命装置である小泉政権がマスコミを操縦支配することで権力を維持し続けることに成功しました。続く安倍政権でも、情報操作で権力維持を図ることになります。「総裁選立候補」のキャンペーンも華々しく、「報道独占」の念の入れようでした。

ところが総理大臣になった後を考えると、国会があり党首討論があります。屁理屈・はったりで切り抜けた小泉氏のようにはいかないでしょう。ここで馬脚を露わしてはいけないので、然るべき対策を講じますというのが中川発言です。攻撃的防御しかないという判断が示されました。

「次期政権」を支える「老中」の苦悩が見て取れます。ここらあたりの事情を押さえた上で、党首討論を「観戦」すると面白いのではないでしょうか。小沢氏は、極力抑えた物言いをするでしょう。それに対して「総理」がキャンキャン言うとみっともないことになります。「振り付け師」の手腕が問われる場面です。「振り付け」通り動けるかどうかも見所です。


2006/9/3(日) 分数が分かる人ならば、自治が分かる

「大きいことはいいことだ。」かつての拡大志向・成長志向が現在の地方自治に残っています。人口規模を自治体の実力と勘違いする傾向が行政や議会にあり、それが平成の大合併を推進する原動力の1つになりました。大相撲で体重が重ければ強いということにはならないのと同様、人口が多ければ強力な自治体にはなるのではないということを理解する必要があります。人口は、自治体の実力の一指標に過ぎません。

人口規模を追求する余り、面積ということが忘れられました。「日常生活圏の拡大にともない自治の範囲が拡大する」という説明では辻褄が合わないくらい広い面積の自治体が出来上がってしまいました。今後、広さ故の苦悩が出てくるでしょう。超高齢社会における高齢者の日常生活領域との齟齬も問題になります。

「自治とは何だろう」と考えてみる慎重さが自治体関係者に必要です。自分たちが地域の事柄を決定し、実行することが自治であるとするならば、「自己」との関わりの中で自治が考えられなければなりません。構成員同士がその存在を確認し合え、自分の意思と行動とが地域に影響を与えることができるという実感を伴ったものであってはじめて、自治が自治たりうるのだと思います。

民主主義は個人と団体との関係が希薄になると実感しにくくなります。地方自治が「民主主義の学校」であるためには、自己の存在が確認できる程度の大きさの団体である必要があります。

自己の存在が何百万分の1であったり、何十万分の1であったりすることでは、「自治」を実感することは不可能です。何万分の1<何千分の1。分数の分かる人なら、小さな自治体こそが自己の存在を確認できる単位であることが分かるはずです。自分自身の存在から出発して、その射程範囲内で物事が認識され、決められていく過程が大切にされるべきです。

「次期総理」・安倍晋三氏が、「道州制」に踏み込んだ発言をしています。彼の「道州制」は、単なる「県」の合併であり、地方リストラの延長線上にある概念です。これによって地方主権が実現されることはありません。「自治」概念が希薄化され、「国による統治」だけが強まることになるでしょう。地方住民が参院選で声を挙げなかったら、地方は益々疲弊することになります。

「地方交付税の算定基準を見直す」ということを真に受けていたのでは、「合併の恩典」、「三位一体改革」と同様、地方はいくらでも騙せるということを裏付けるだけに終わってしまいます。


2006/9/2(土) 「借金→政治テロ」、を軽く見てはいけない

加藤紘一氏自宅放火事件の容疑者が、加藤氏の発言に対する不満のほか、「借金があって生活が苦しく、自殺して楽になろうと思った」とも供述しているとの報道がありました。

「なんだ、個人的な事情が絡んでいるのか」と軽く見てはいけません。戦前に政治テロが多発した理由が「個人的」ではなかったという証明はありません。むしろ、「鉄砲玉」になる人物は強い人間ではなく、弱い人間であると考えておいた方がいいと思います。

結核が不治の病であった戦前。そうした時代に、「自分はもう長くないから思い切ったことをやってやろう」という動機で大事件を起こそうとした者がいなかったかどうか。犯罪学の一場面として、「政治テロの個人的動機」というテーマで研究したら、興味深いものになるのではないでしょうか。

「動機が個人的だから、政治テロとしての意味合いが薄い」ということにはならないということを強調しておきます。


2006/9/1(金) テレビが命取りになることもある

小泉政権5年半の政権維持がテレビのお陰だったということは、大方の認めるところであろうと思われます。1日2回記者会見をし、テレビカメラが入ると短くシャープに語り、そのメッセージが毎日国民に届く。このことの繰り返しで、実質の支持率に10〜20%が上乗せされる仕組み。

次期政権もその手法に学んだ政権運営を行うでしょう。しかし、次期政権はテレビの怖さを知ることにもなりかねません。5年半の矛盾が噴出し、積み残しの課題も重くのし掛かってきます。「識者」やマスコミがどう言い繕っても、矛盾だらけの状況下での政権引継ぎ。毎日の記者会見が重荷になってくることになれば、表情に曇りが出て、それが映像に収められることになります。神経が細かければ、顔面神経痛になることもあり得ます。

ちょっとした表情の変化、言語の曖昧さ、自信のなさを映像は見逃しません。相当のプレッシャーが掛かってくるでしょう。質問に対し、まばたきを余分にしたり、口籠もったりするだけで印象が変わります。そうであるが故に、これまでの政権は記者の「ぶら下がり」や記者会見に慎重だったのです。参院選のプレッシャーが首相の言動を慎重にすれば、自信のなさとして写るでしょうし、情勢の変化で言動にブレが出たとしたら、ここぞとばかり同じ映像がリフレインされます。

小泉政権がマスコミ支配による政権運営をしたといっても、マスコミが完全隷属したということではありません。マスコミの属性を知り尽くした利用がなされたということが大半です。巨大広告代理店の圧力や権力との通謀で、意図的に国民を誘導した部分もあったと思われますし、そのことの欺瞞性は指摘し続けなければなりませんが、映像自体は嘘をつきません。意図的編集が間に合わないこともあります。

次期首相に小泉的演技ができるかどうか。「振り付け師」の指示通りにはいかない局面もあります。次期政権は、テレビに殺される可能性もあると思います。橋本政権がそうでした。そうならないために、かなりの介入をするでしょうが。


玉井彰の一言 2006年9月 四国の星ホーム一言目次前月翌月