玉井彰の一言 2006年10月 四国の星ホーム一言目次前月翌月

2006/10/31(火) 農家の所得補償で地域崩壊を防げ

来夏の参院選では、農家に対する所得補償が1つの争点になるでしょう。民主党が零細農家を含めた所得補償を提案するのに対して、自民党は大規模農家に対する補償を提案する形で対峙します。

農業に対する補助金ではなく、所得保障をするという政策は欧米諸国では既に行われており、一定の成果を上げていると言われます。自由貿易を前提としながら農業を保護していくことに、各国とも腐心しています。

これまで自民党が進めてきた農業への補助金政策は破綻しました。これに代わる農業振興策を民主党が提案するや、対抗する形で提案されたのが自民党案です。零細農家、兼業農家中心で日本の農業は行われてきました。それを大規模化し企業化する方向でモデルチェンジを図とうとするのが、自民党案=農水省案です。

自民党案は地域を破壊します。国土の隅々まで耕作地としてやってきた先人たちの営みへの敬意が払われていないだけでなく、「田舎」と呼ばれている地域の多くで、人々が暮らしていくことを否定する「毒まんじゅう」が自民党案です。真っ正面から地方を切り捨てる政策です。

民主党案には、「バラまきである」との批判が展開されるでしょう。しかし、きめ細かに生産されている日本の農産物には、潜在的な国際競争力があります。結果としての所得保障額は、それほどの金額にはならないであろうと予想されます。

来夏の参院選で有権者が自民党の宣伝にまんまと乗ってしまい、地方1人区で民主党が敗退するとすれば、これは地方の自殺行為です。民主党案の所得補償で地域崩壊を防がなければなりません。


2006/10/30(月) 出世を諦めた裁判官しか、まともな判断はできない

裁判官、検察官、警察官を含めた司法に、まともな判断を期待することが難しい世の中になってきました。報道機関についても、真実の報道は無理です。警察が権力に弱いことは昔から知られていましたが、正義の味方であるはずの検事も、どうだか分からなくなっています。

「国策捜査」と言われているものがあります。イーホームズ社長の藤田氏の「告発」については、マスコミが動きません。藤田氏の起訴自体が「口封じ」の要素が濃いように見えます。あれほど「マンションを購入した住民たちは生存を脅かされている。耐震偽装は許せない。」と連呼していた報道機関が、藤田氏が東京地裁判決後に告発すると、手のひらを返して無視を決め込んでいます。真偽の調査があるようにも見えません。本当のところ、マンション購入者の安全のことなど眼中になかったのです。

マスコミ・司法が、「藤田の口を封じろ」という「国家意思」に忠実な動き方をしています。これをまともに追求すると、収拾がつかなくなる恐れがあるので、「大所高所の判断」ないしは「高度の政治的判断」を行ったものと見られます。

時折忘れた頃に、「大岡裁き」とも言えるような名判決がでることがあります。その裁判官が出世を諦めているからではないかと思います。戦後61年。欲得、名誉心のため、正義を体現することが期待されている方々にも、倫理の退廃が起きています。国家衰亡の兆しです。

司法、報道機関の方々に、「立身出世主義からの訣別を」と訴えたいと思います。


(参照))
平成18年10月19日:「イーホームズ・藤田社長の『告発』をマスコミはどう扱うか」
平成18年10月20日:「藤田社長(イーホームズ)の『告発』(続)」


2006/10/29(日) 「50過ぎたらチャレンジするな」・・・前橋地裁の年齢差別判決

筆記試験で合格者平均点を上回りながら、面接で高齢を理由に不合格にされたとして、群馬大医学部を受験した56歳の主婦が同大を相手取り入学許可を求めた行政訴訟について、前橋地裁は10月27日、「年齢により差別されたことが明白とは認められない」などと述べ、原告の請求を棄却しました。

この訴訟においては、不合格を決定づける要因として、年齢以外の要素は見当たりません。年齢差別判決です。超高齢社会を迎え、中高年の方々にはチャレンジをしていただかなくてはならない時代に入っています。そうした背景を考えれば、判決には納得できる不合格の理由が明示されなければなりません。 

群馬大学医学部の入試では、筆記試験(センター試験と個別試験、小論文)に面接と調査書を加えた「総合的な判断」によって合否判定が下されます。このうち1つでも「著しく不良のものがある場合は不合格もありうる」と入試要項には書かれています。筆記試験で合格者平均を10点以上も上回っていた原告からすれば(得点開示請求により大学が開示)、面接で「著しく不良」とされたという以外の不合格理由は思いつきません。

そのため、面接ではどのようなチェック項目があり、どう点数化されているのか開示を求めましたが、大学側は「今後の入試に影響を及ぼす」として応じませんでした。さらに、入試担当者から「医師を社会に貢献させる使命が国立大学にあり、10年かけて育成しても社会に貢献できるか、あなたの年齢が問題となる」と自分の不合格理由に高年齢が挙げられたと主張しましたが、判決は「証拠がない」としてこの発言を認定しませんでした。

原告56歳。受験勉強に3年、法廷闘争に1年4カ月を費やしてのチャレンジに対して、あまりにも酷薄な判決です。「50歳になったらチャレンジするな。」という意味合いでしか読み込めない話です。予測可能な明確な基準が明らかにされていなければ、努力して筆記試験をクリアしても、「頑張ったけど残念でしたね。ご苦労さん。」ということにしかなりません。それこそ、「今後の入試に影響を及ぼす」ことになります。


2006/10/28(土) 新庄選手と7500円のグラブ

新庄剛志という野球選手は、阪神時代、大リーグ時代を通じて、超一流の活躍をした選手ではありませんでした。しかし、マスコミが期待する(期待を上回る)パフォーマンスが得意であり、実力以上の存在感と期待感を持たせる選手でした。

日本のプロ野球復帰に際し、日ハムを選び札幌のファン沸かせた仕事ぶりは、見事と言うべきでしょう。ドラマティックな引退劇を演出した彼の今後がどうなるのかは、多くの野球ファンだけでなく、国民の関心事になってしまいました。

来夏の参院選も噂されていますが、やらない方がいいと思います。政治が「新庄」を消費するだけに終わってしまう可能性が強いからです。もちろん彼に、政治の分野で何かやってみたいとという内発的な動機があるのなら、面白い政治家になれるでしょう。

昨日テレビを見ていたら、プロ入りして最初にもらった給料で7500円のグラブを買い、それをずっと使っていたという話をしていました。野球小僧がそのまま大きくなったのだなと感心しました。野球好きの少年にとって、グラブは命です。高額の給料をもらうようになっても、自分が最初の給料で買ったグラブを大切にする気持ちというのは、グラブ=野球への愛着がそれだけ強かったということを物語っています。

好奇心の強い「少年」が、自分の人生を探求するために始めようとする新たな旅路がどのようなものになるのか分かりませんが、「グラブ」以上のものを発見できる旅であることを祈ります。


2006/10/27(金) 自民党造反組復党問題を考える

来夏の参議院選挙、とりわけ1人区で自民党が勝つためには、昨年総選挙で自民党を追われた「造反組」に復党してもらう必要があります。彼らの勢力がどう動くかが大きな影響を与えるからです。

しかし、これを安易に行うと、「刺客」をはじめとする「小泉チルドレン」の反発を招くだけでなく、「新しい自民党」に期待した有権者を裏切ることにもなります。

思い出されるのは、人気絶頂の橋本龍太郎首相が、第2次橋本内閣にロッキード事件で有罪判決を受けた佐藤孝行氏を入閣させたことから大きく躓いたことです。マスコミを中心に猛烈な反発が広がり、佐藤氏は2週間足らずで辞任に追い込まれ、橋本内閣の支持率も急落しました。

自民党三役である総務会長になり、政治的には復活したという印象があった佐藤氏を閣僚にしたとたんに猛反発を食らったのですから、橋本氏の側から見れば「何故なのか」という不可解な話だったと思います。しかし、一度大きなうねりができはじめると、止めようがなくなるのが政治です。

今回の復党話も、どう転がるのかは全く不明です。自民党も復党組も、有権者から見放されるということがあり得ます。信念を貫けなかった政治家を有権者がどう見るかは、複雑な要因があり予想できませんが、新進党や自由党からの転向組花盛りの自民党においては何でも許されると考えていると、大きな落とし穴が待っているような気がします。

昨年の郵政解散のインパクトが大きかっただけに、反動も大きいと見ておく必要があります。「郵政選挙」は政策の選挙ではなく、小泉首相の「信念」への協賛という要素が強かったということを読み誤ると、大変なことが起こる可能性を秘めています。

第2次橋本内閣の当時と異なる点は、報道機関が権力翼賛に努めているところです。しかし彼らも、一定のパフォーマンスを展開しておかないと国民から見放されるという不安を抱えた存在です。有権者の反応如何によってスタンスを変えざるを得なくなる場合が出てくると思います。

もうひとつ橋本内閣の当時と異なるのは、「好景気」だということです。ところがこれも、地方や零細企業には波及しておらず、このままだと、地方は不景気なまま参議院選挙を迎えざるを得ません。

今回の復党問題には様々な要因が絡み合っており、簡単な問題でないことだけは確かです。


2006/10/26(木) 必修科目履修漏れは、教育における「耐震偽装」

世界史だけが必修とは知りませんでした。全国各地の高校で、社会科の必修科目である世界史を履修せず、卒業単位が取得できない可能性のある事例が報告されています。

大学入試に最も有効なやり方を追求する過程で、「省略」が行われたものと思われます。入試至上主義による「促成栽培」の「効果」が後々出てくるのではないかという懸念があります。いや既に、過去の指導料要領の結果が、国民の政治意識に表れているのではないでしょうか。

歴史というのは、学問の柱であると考えます。ここを疎かにして大学で学ぶことは、基礎工事のできていない建築に相当する危うさがあります。高校から社会に出た場合でも、国民としての意識ないしは精神的支柱に欠けるところが出てくると思われます。

そもそも、日本史・世界史は必修であるべきです。暗記部分が多いなどと言って敬遠する向きもありますが、それは学び方と入試のあり方に問題があります。基本的な歴史の流れと、時代の変化をもたらした事象についての研究が基本であるべきです。そういう意味からすれば、日本史概要、世界史概要という基本枠組みを修得できる部分を必修(両者併せて「歴史概要」)とすべきかもしれません。

高校分野の教育責任者が世界史履修を省略するという安易な発想に立っていたことを猛省しなければなりません。これは教育分野における「耐震偽装」だという認識を持つべきです。

「無用の用」という言葉を思い出しました。一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていることを言います。有用とされている事柄だけを追うのではなく、背景となる知識や経験が人間の真の力量を決めるものだという考えに立たなければ、世界に通用する日本人にはなれないと思います。


2006/10/25(水) 共産党は隠れ自民である

日本共産党が負け戦覚悟で候補者を立てるのは何故でしょうか?それも、自民党を利する形で。

この政党が、隠れた自民支持政党だからです。自民党あっての共産党。自民党政治の落ちこぼれを救済する政党。ここに活路を見いだすしかなくなったのが現在の共産党であり、「確かな野党」路線です。

かつての共産党。不破哲三氏若かりし頃の共産党はそうではありませんでした。論客・不破哲三に論争を挑む無謀な保守政治家はほとんどいませんでした。1970年代、「民主連合政府」実現はそれほど先ではないと思わせる勢いが共産党にはありました。

どこでこうなったか。組織の硬直化です。老化です。新規の加入者が減少し、組織が高齢化してくると、新たな発想は育ちにくくなります。専従の方々は、党を離れて実社会において単独で生きていくことが困難になります。そうなると、党内で活発な議論は起こらなくなります。元共産党参議院議員・筆坂秀世氏の著書「日本共産党」には、幹部が全く発言しない様が描かれています。職(専従)を失うと、食べていけないからです。

本来の共産党なら、民主党が政権を取ることは、「ケレンスキー内閣」(1917年3月のロシア帝政崩壊後に成立した臨時政権)成立だと言って喜ばなければならないはずです。ロシアではその後、レーニン率いるボルシェビキによる11月革命(露歴10月革命)でプロレタリア革命が成功しました。

「ケレンスキー内閣」を喜ばない共産党というのは、ネズミを怖がる猫のようなものです。組織維持でいっぱいいっぱい。革命なんて勘弁してくれ。民主党が政権を取ったら、共産党の「真価」が問われてしまうじゃないか。自民党政治の落ちこぼれを拾う「確かな野党」でいる限り、数%の支持を得られる。組織維持のためには、結果として自民党を助けることになるが、それはやむを得ない。

こういうことなのだろうと推察します。心情的には、他党が自民党を倒して政権を取ることへの嫉妬があるのでしょう。「隣に倉が建つと、ワシは腹が立つ」ということが商店街でよく言われました。高邁な原理を掲げる共産党の心根がちっぽけなものであることに、失望の念を禁じ得ません。


2006/10/24(火) 庶民の支持で格差拡大路線を進む自民党政治

(日経新聞より)

【生産設備、償却期間短縮へ・政府検討】 
 
政府は企業の法人税負担の軽減策として、生産設備の税制上の償却期間を短縮する検討に入る。償却期間中は毎年損金として計上できる金額を増やしてその年の税負担を軽くするとともに、新たな設備投資を促す。2007年度の減価償却制度見直しを視野に、液晶などハイテク分野の新規投資分から適用する案が有力だ。

また設備投資額の全額を損金に計上できる仕組みも導入する考え。経済活性化税制の柱と位置付けて安倍政権が掲げる成長路線を後押しする。 

日本の減価償却制度は税法上の償却期間(法定耐用年数)を機械の種類ごとに規定。企業が機械などを購入した場合に、時間の経過とともに資産価値が目減りする分を毎年どのくらい損金に計上できるか決める仕組みだ。


(コメント)

「民営化、○(マル)と書いたら大増税」

昨年の総選挙で私が掲げたコピーです。実際、「郵政民営化」が単一争点のようでありながら、庶民増税が一服盛られていました。自民党が大勝すると、「恒久減税」だったはずの所得税減税があっさり反古にされました。企業減税はそのまま。トヨタが自民党を必死に応援した理由の1つが見えてきます。

今回の自民党勝利で、大企業優遇の政策が加速されることになります。減価償却費の償却期間が短縮されても、儲かっていない企業には恩典はありません。グローバル化に適応して儲けている一部企業が益々儲けられる仕組みをつくることには役立ちますが、その効果が地方や中小零細企業に波及することはありません。

選挙で庶民の支持を得て大企業を優遇する。このシステムを維持することが自民党政権の課題です。ここで役に立つのが、マスコミです。再販制維持の見返りとして官製報道機関になることで、権力の支柱の1つになりました。今のところ、このシステムは成功です。国民が政治に弱いからです。(官製)報道を信じる習慣から抜け出せないからです。

一般庶民や勤労者は、死語になりつつある「搾取」という概念を思い出すべきです。搾取と言うと、直接雇っている企業主の顔が目に浮かびますが、大きな構造の中での搾取があることを意識していかないと、何時までたっても騙されるだけになります。

下層の庶民が支持して格差が拡大されるという間の抜けた政治からの脱却が必要です。


2006/10/23(月) 自民2勝・・殊勲・北朝鮮、敢闘・公明、技能・マスコミ

2つの衆院補選を自民党が勝利したことを受け、「安倍政権に安定感」、「選挙の顔示す」などといった翼賛報道がおどっています。

自民党勝利の立て役者は、何と言っても金正日。適切・効果的な「核実験」。公明党・創価学会の敢闘ぶりも凄まじかったと言います。加えて、真実を隠し続けた報道機関に「技能賞」を差し上げたいところです。

報道から真実を読みとることは不可能になりました。翼賛報道の「行間」を深く読む読解力が国民に求められます。

朝日新聞・社説は、「衆院補選 まずは合格点の安倍首相」の見出しを掲げ、「…最近の選挙では、候補者の主張や個性とともに、党首の人気度が勝敗を左右する。その点で、安倍首相は選挙の「顔」として党内の期待に応えたということだろう。…」と述べています。

そうでないことは、朝日新聞が一番よく知っているはずです。安倍氏が意外に不人気であることがそれぞれの選挙区で明らかになっています。安倍氏を取り囲む「大観衆」は、某団体ではないのか。小泉人気にぶら下がったのではないかとの疑問。政権の船出に全ての条件がそろっての結果です。 

それでも、民主党には敗因分析が必要です。神奈川16区の惜敗率が73.5%、大阪9区が83.1%。ややもの足りない数字です。「肝心の政策面でこのところ民主党の存在感が薄れていることが、有権者へのアピールに欠けた原因ではないか。」という朝日社説の指摘は、ある程度当たっています。

しかしながら、補選というのは「押し相撲」の要素が強く、組織の地力がなければ勝ちきることは困難です。本選挙は「政策」で「四つ相撲」が可能ですので、補選は補選、本選挙は本選挙という割り切りが必要であると思います。 

(参照)
平成18年10月22日:「『再販制』が真実を封じ込めているのではないか」


2006/10/22(日) 「再販制」が真実を封じ込めているのではないか

【官邸前騒然 イーホームズ社長、首相に面会求め問答】

耐震強度偽装を見逃した確認検査機関、イーホームズ(東京、廃業)の藤田東吾社長(45)が20日、東京・永田町の首相官邸を訪れて安倍晋三首相に面会を求めて拒否され、官邸前が一時騒然となる一幕があった。

藤田社長は午後1時ごろ、川崎市内のマンションが新たな「偽装物件」であるなどと告発する書面を手に官邸を訪れた。「腐り切った国土交通省に渡してもどうしようもない。直接首相にお渡しし、対応してもらいたい。首相とは知らない仲ではない」と首相に面会を求めた。

官邸側の対応を待つ間、取り囲んだ報道陣に、これまでの国の対応やマスコミ報道を批判。周辺には警備の警察官も多数集まり、物々しい雰囲気となった。結局、官邸側は受け取りを拒否。代わりに内閣府の職員が書面を受け取った。

藤田社長は同社の架空増資事件で、電磁的公正証書原本不実記録・同供用の罪に問われ、東京地裁で18日、懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役2年)の判決を言い渡されている。
(以上、産経新聞)


(コメント)

私の知る限り、藤田社長が首相官邸に出向き、耐震偽装問題の告発をしようとしたことを報じたのは産経の記事だけです。それでも、この程度。他の一般紙は沈黙した模様です。東京地裁で判決が下された直後の記者会見を報じたのは東京新聞のみ。他紙は、藤田氏が「責任は国にある」とまくし立てたというような扱いです。テレビも、犯罪者の暴走というニュアンスの扱いだったようです。

我が国では、本当に大切なことは報道されにくくなりました。かつてソ連では、ソ連共産党機関誌「プラウダ」と政府機関紙「イズベスチヤ」がありました。両紙とも党・政府のプロパガンダ紙であり、党や政府に都合の悪いことは書かれませんでした。多くの国民はそのことを知っており、行間を読むことで真実を探ろうとしました。

【「ソ連の二大新聞プラウダとイズベスチヤの違いはなにか?」「プラウダにイズベスチヤ(報道)はなく、イズベスチヤにプラウダ(真実)はない。」】 というような小咄(こばなし)も生まれました。

大手報道機関と政府との間で、再販制維持のための黙約ができたのではないか。「真実」を報じない代償として、再販制が維持され新聞社の経営が安定する仕組み。我々は、旧ソ連人民と同様、「行間」を読む訓練が必要な時代に入りました。

詳しくは、「きっこのブログ」(「きっの日記」が本体)


2006/10/21(土) いじめとは、閉鎖社会の象徴

子供たちがいじめにより命を絶つというニュースは、もう終わりにしていただきたいものです。いじめとは何なのか。このことを掘り下げずに事象だけを追いかけても、問題の本質は見えないと思います。

いじめは近年始まったものではありません。教育現場だけのものでもありません。かつての軍隊、とりわけ陸軍におけるいじめは凄惨かつ執拗であったと言われます。

多くの者が抑圧状態にあり、その捌け口を求めているところに、いじめの「ニーズ」があります。組織や社会に明るい展望があり、個々のメンバーに高い志や希望があれば、いじめのような非生産的な方向に向けられるエネルギーは、それほど残らないはずです。

いじめの根元は、個々の人たちの所属する「部分社会」の閉鎖性にあると考えます。外部に向かって展開する活力がなく、内側に陰湿な形で封じ込められた情念が「獲物」を狙っている構図です。閉鎖社会の象徴としてのいじめを根絶するには、個々の活力を外に向かって最大限発揮できるシステムづくりとカウセリング機能の充実とが必要であると思います。

教育について言えば、教師は授業・講義をするのではなく、個々の生徒のカウセリングに徹する。授業・講義は「専門家」に委ねる。そういう形で教育の再構成・再定義を行うことが必要であると考えます。教師に授業とカウンセリングの両方を期待すべきではありません。教育が国家の根本であると考えるならば、この部門の予算をケチってはいけないと思います。

「米百俵の精神」を説いた方もいましたが…


2006/10/20(金) 藤田社長(イーホームズ)の「告発」(続)

「ジャーナリズム」を辞書で調べると、「新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどにより、時事的な問題の報道・解説・批評などを伝達する活動の総称。また、その機関。」ということになります。

ジャーナリズムの本体をなすのは、自らの視点をしっかりと持った観察者が、「事実」を見極めていくところだと考えます。

昨日述べたイーホームズ・藤田社長の「告発」に対して、各報道機関が独自の視点で事実を究明していくことが求められます。


<以下、東京新聞記事>

『アパ3物件も偽装』
藤田元社長暴露

判決後、会見で別の耐震偽装疑惑を述べる藤田被告=18日午前、東京・霞が関の司法記者クラブで 「国がどうやって真実をねじ曲げてしまうか、みんな知らない」。耐震強度偽装事件の“登場人物”の一人とされ、東京地裁で十八日、有罪判決を受けた民間確認検査機関「イーホームズ」(廃業)元社長藤田東吾被告(45)が判決後、記者会見で「爆弾告発」をした。「アパグループの物件でも偽装が行われた」。藤田被告は激高した口調で、国や捜査当局を「耐震偽装を隠ぺいするために私を逮捕した」と批判、マスコミに真実を追及するよう訴えた。

■首都圏マンションなど

藤田被告は判決後、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「イーホームズが確認検査をしたホテル・マンション大手『アパ』グループの三つの物件でも耐震強度の偽装があった」と述べた。

アパは今年六月、「イーホームズより構造計算書に一部不整合があるとの報告を受け、検証中」と明らかにしていた。

藤田被告によると、イーホームズが偽装を確認したのは(1)埼玉県鶴ケ島市のマンション「アップルガーデン若葉駅前」(2)千葉県成田市のマンション「アパガーデンパレス成田」(3)川崎市内の物件−の三物件。偽装に気付いたのは今年二月。アパグループの物件の構造設計を請け負っている富山市内の設計事務所の代表がイーホームズに来社し、藤田被告に打ち明けたという。

この後、アパの役員らがイーホームズを訪れ、計画の変更を要請。「アップルガーデン」と「ガーデンパレス」は「計画変更も再計算も適切ではない」と判断し、工事は現在中断しているという。

藤田被告は「国に通報して、アパの物件を調査するように要請したのに、担当者は『関知しない』と取り合わず、アパは工事を止めなかった」と述べた。

その上で「本質は確認検査ではなく、偽装が可能なレベルの構造計算プログラムの問題だ」と主張。「その責任は、プログラムの運用プロセスを認定した国土交通省と同省の天下り団体である『日本建築センター』にある」と訴えた。


(コメント)

もちろん、事実を確認し、咀嚼するための時間は必要であると思います。しかし、この話がそのまま放置されるとすれば、この国のジャーナリズムは死んでしまったということになります。

判決が下って被告人が記者会見をした。その中味に起訴事実や判決よりもはるかに重大な内容が含まれていた。事実無根であるとすれば名誉毀損。事実であるとすれば、藤田氏に決死の覚悟があってのことです。生命の危険すらあります。東京新聞以外の一般紙がその点を無視して判決のことだけしか報じないとすれば、これこそ官製報道です。

日本のジャーナリズムに突きつけられた「ハルノート」であると思います。


2006/10/19(木) イーホームズ・藤田社長の「告発」をマスコミはどう扱うか

きっこのブログ」は大変な人気ブログで、きっこ氏の著書はかなり売れているようです。書店の店頭では難しいので、ネットで注文して到着を待っているところです。 

この「きっこのブログ」に爆弾記事が掲載されています。イーホームズ・藤田社長の「告発」です。安倍晋三総理大臣ゆかりの、あるマンション・ホテルグループに関する構造計算偽造についてのものです。これが事実とすれば、藤田氏に関する「捜査・刑事訴追」の陰で、耐震偽装問題の本質に迫る大問題が隠されていることになります。

昨日、藤田社長の架空増資についての判決があり大きく報じられていましたが、私の見る限りでは、テレビでは藤田氏の「告発」を取り上げませんでした。架空増資自体が問題ではなく、その背景にある構造計算偽造の審査のあり方が実質的に問われているようなニュアンスで報じられていました。しかし、本件が架空増資なのに、そこから敷衍して利益至上主義が構造計算書偽造を見抜けなかった原因であるというところまで断じて刑事訴追するというのは、いささか筋違いであると思われます。判決も耐震偽装問題との関連を認めませんでした。

そもそも、藤田氏は自らの不利益を省みず、卑劣な耐震偽装を告発した人物であり、他の事象に落ち度があったとしても、それなりの評価が与えられて然るべきではなかったのでしょうか。その人物が「架空増資」で刑事訴追されること自体に、違和感を持っていました。

「きっこのブログ」では、藤田氏からのメールが掲載されています。これは深刻な内容です。報道機関が架空増資の問題に矮小化し、そのことだけの関連で耐震偽装問題を論じ続けるのかどうか。まだテレビも朝刊各紙(残念ながら朝刊しかない地域に居住しています)も見ていないので何とも言えませんが、「きっこのブログ」によれば、昨日の段階で東京新聞しか報じていないようです。

ジャーナリズムの根幹に関わる問題として注視します。


2006/10/18(水) 「金正日、核断念」の痛み<「1941年日本、大陸撤退」の痛みか?

「大東亜戦争」はやむを得ざる自衛戦争であったという説があります。ABCD包囲網を敷かれ、大陸からの撤退を主な内容とするハル・ノートを突きつけられ、もはや戦うより他なかったというものです。(極東軍事裁判におけるインドのパール判事の意見が、都合よく引用されます。)

この1941年における大日本帝国の状況と、2006年の北朝鮮の状況と、どちらが厳しいと考えればいいのでしょうか。大日本帝国の場合、大陸撤退を政治決断すれば、平和的な解決が待っていました。北朝鮮の場合も、核を断念すれば危機は回避できます。

どちらの場合も、その決断は体制崩壊につながる可能性を秘めています。しかし日本の場合は、政治的軍事的な大混乱が生じ、時の政治権力が持たないということはあっても、天皇を中心とする国家体制が崩壊することはなかったであろうと思われます。(昭和天皇幽閉という事態はあり得ても、天皇の身に危害が加えられるということはなかったでしょう。)

それに対し、北朝鮮の場合は、国内の混乱が金正日政権の崩壊を加速し、金正日自身の生命の危機をも招来します。もし、国内的な混乱なく核開発断念という決断をしたとしても、世界最貧国という惨めな現実が残るだけです。

そう考えると、1941年における大陸撤退の決断の方が2006年における金正日の決断より重く深刻であるということはできないと思われます。

北朝鮮を追いつめることは、「大東亜戦争=自衛戦争」論の立場からすれば、北朝鮮の「自衛戦争」の引き金を引くという意味合いになります。「大東亜戦争=自衛戦争」論者の方なら痛いほど分かるはずです。(いや、人の痛みは分からない人たちか?)

北朝鮮が核実験に失敗したという説が有力です。北朝鮮の足下を見ながら圧力を加え、崩壊を加速させるというシナリオもあり得る展開です。しかし、北朝鮮が1941年の日本よりもやっかいなのは、崩壊による2200万人の難民発生のリスクを近隣諸国が負担しなければならないということです。暴発のリスクもあれば、崩壊のリスクもある中で、ソフトランディングのシナリオが描ける政治・外交がベストだと思うのですが。


2006/10/17(火) いじめ自殺報道に見る、記者の突っ込み

福岡県筑前町の中学2年生男子がいじめを苦に自殺した問題。孤立無援のまま自殺せざるを得なかった少年は、さぞかし無念だったでしょう。元担任教師が加害者側だったというのですから、問題の根は深いと言うべきです。

ところで、この報道が極めて過激に行われていることが気になります。校長への質問には、厳しいものがあります。取材する記者には、校長発言の一言一句の誤りも許さないという強い姿勢が感じられます。

このやりとりをテレビで見ていて、小泉前首相にこれだけ食い下がる記者がいれば、日本の政治も変わったはずだが、と溜息が出ました。この5年半の報道は何だったのか。これからも続く可能性のある翼賛報道と、中学校長に鋭い突っ込みを入れる報道とは何が違うのか。

水に落ちた犬は打て、でしょうか。権威が失墜したと見るや、猛烈に攻撃する。それも、正義を旗印として。こういう報道姿勢は、ともすれば過激に流れる余り、ディテールを見逃す危険をはらんでいます。学校と教師をやり玉に挙げれば話は簡単です。しかし、自殺した少年、周囲の級友達、先生、学校側、教育委員会等々の関係者の詳細を冷静に取材することが必要な場面ではないでしょうか。

勇気を振り絞るのなら、権力に対してではないのか。記者の方々には、そう問いかけたいと思います。隆盛を極めている権力に厳しい突っ込みを入れてこそ、記者の面目躍如ではないのでしょうか。冷静に事実を追求する生真面目さと、立ちはだかるものに対する勇気。これが現在の報道に決定的に欠けていると思います。

叩きやすい相手を叩くという心根の卑しい報道を見せつけられ、吐き気がしました。この報道もイジメではないのかと。


2006/10/16(月) 核保有の議論は必要か?

北朝鮮の核実験と聞くと、イコール核戦争と考え、「やられる前にやってしまえ」、という世論が台頭する可能性があります。

自民党の中川昭一政調会長は15日テレ朝・サンデープロジェクトで、北朝鮮の核実験発表に関連し、日本の核保有について「核があることで攻められる可能性は低いという論理はあり得るわけだから、議論はあっていい」との認識を示しました。

一方、安倍首相は国会で「我が国の核保有という選択肢は一切持たない」と答弁しており、15日の大阪府内での街頭演説でも「北朝鮮が核武装を宣言しようとも、非核三原則は国是としてしっかり守っていく」と明言しています。中川秀直幹事長も記者団に「首相の発言を評価している」と語り、党として議論するつもりはないことを強調しました。公明党の斉藤鉄夫政調会長は中川政調会長と同じ番組で「議論をすることも、世界の疑念を呼ぶからだめだ」と述べています。

中川政調会長の発言は突出したものなのでしょうか。神奈川・大阪の補選を考えると、発言のもたらす影響は微妙ですが、政府与党内においては、日本における「核武装論」を北朝鮮への抑止力として用いるという、一種の陽動作戦が模索されているのではないでしょうか。

「核には核」という発想を短絡的と笑っているわけにはいきません。国民の心理に「北」の核が暗い陰を落としていることは確かです。この「導火線」に火を付けるとどうなるか。我が国の歴史を振り返ると、政治家や軍部が国民を煽り、結果として国民の心に火を付けてしまった後は、誰もそれを止められず、結果として「時代の空気」に押し流された形で破局へと突き進んでいきました。

「核武装論」陽動作戦は、結果として、国民の攻撃本能に火を付けるだけでなく、外国の不審を買い、核拡散の動きに拍車を掛ける方向に作用する可能性があります。中川政調会長が「赤提灯での防衛論議」を政治討論の場に持ち込んだのだとすれば、軽率の極みです。


2006/10/15(日) 長生きが不幸であると思う若者は好戦的になる

若者を中心に右傾化傾向があると言われています。ネットの世界では、思いやりの感情が失われつつあります。若者の短絡的な発想と切り捨てるのは簡単ですが、理由がないわけではありません。

将来の見取り図がないのです。超高齢社会に対して、社会的な備えができていません。若者の目を通して見える光景は、超高齢社会の悲惨な側面です。長生きしても詰まらなさそうである。介護を受けなければならなくなる将来は嫌だ。年金も満足にもらえそうにない。中高年になるとリストラされる。年を重ねていくことは悲惨だ…

長生きすることが不幸であると考えるようになると、刹那的な快楽に溺れるようになります。単純明快な結論を求めるようになります。北朝鮮の問題を根気よく解決するより、強行突破する方が考える手間が省けます。結果として、好戦的な気分が醸成されることにもなります。

長寿が幸福であると実感できる社会にすることが、平和を維持する原動力になると考えます。長生きすれば報われる。今の苦労は一時的なものである。人と人との関係は長期的に築いていくものである。根気よく問題を解決することで、最も大きな果実が期待できる… 

そうした見通しがある世の中にするためには、生活から政治を考えるという習慣を多くの有権者が身に付けていくべきです。「平和」という抽象概念は、日々の平穏な生活の積み重ねの中にあります。長期的な人生設計が成り立つ見通しがなければ、空洞化していく概念でもあります。

「情けは人のためならず」という諺はよく誤用されますが、長期的な展望があってこそ、「情け」をかけることが自分に対する「リターン」になるという意味に受け取れるものだと思います。


2006/10/14(土) 北朝鮮問題解決は政権交代から

北朝鮮からの「風」は、安倍政権への追い風となっています。「好景気」を庶民や零細企業、地方に波及させることができず、政策が大企業本位であることが明確になるにつれ、安倍政権の支持率は低下することになります。しかし、金正日の暴挙が支持率低下を阻止します。安倍政権は北朝鮮頼みの政権であるという皮肉な話になっています。

昨日、国際ジャーナリスト・手嶋龍一氏の講演を聴きました。ブッシュ・コイズミの関係が極めて良好であったにもかかわらず、「日米同盟」は空洞化してきた。これがテーマでした。日本とアメリカが共通の戦略を持っていない状態で、日本がアメリカの要求を全面的に受け入れても、アメリカの関心は挙げてイラン・イラクに向けられたままです。アメリカには、北朝鮮に振り向ける余力がないのです。日本はアメリカのパートナーであるといっても、リップサービス以上のものを受けることがない状態に陥っています。

「日米同盟」は、もはや日本の精神安定剤でしかありません。「日米同盟」を有効に機能させるには、アメリカとの共通戦略を樹立することと、極東有事に備えた日米関係の再構築が必要です。日本に戦略がない「日米同盟」では、日本はアメリカの「下駄の雪」でしかなく、結果として、アメリカに貢ぐだけの属国状態になります。

要するに、日本および日本国民はなめられているのです。日本が政治的プレゼンス(存在感)を示す有効な手段が「政権交代」であるという認識を国民が共有しておかなければなりません。従来多くの国民が、自民党でないとアメリカとの有効なパイプたり得ないという錯覚の中で生きてきました。しかし、現実には「貢ぐ君政治」しかできていないのが実態です。肝腎なところでは(常任理事国問題、北朝鮮問題など)、「日米同盟」は役に立っていません。 

「日米同盟を機能させることができなかったので、自民党は国民の信頼を失った」という形で政権交代が行われること(ないしは、そういうストーリー)が、アメリカをプッシュする最も有効な手段であると考えます。 

以上、手嶋氏が講演の最後に述べられた、「外交問題を政治家に丸投げしてはいけません」というメッセージを聞いての感想。


2006/10/13(金) 生存権の観点から地方を再構成する

学校・幼稚園・保育園の統廃合、病院の統廃合、役場等の行政機関の機能・人員の削減…

地方、とりわけ過疎地域においては、生活の基盤である様々なサービスが縮小され、提供されにくくなっていきます。その地域の住民からすると、健康で文化的な生活が保障されない事態です。

もう人は住むべきではないということなのかどうか。そのところを政府に明らかにしていただかないといけない段階に入っています。一部の都市地域だけの繁栄があれば、この国は大丈夫なのかどうか。農村部は衰退し、都市は繁栄するということでいいのかどうか。

それでいいと考えるのであれば、財政の論理で「リストラ」を肯定することになります。私は、そのような国家のあり方には反対です。自由貿易であるから、世界中どこからでも食料は輸入可能であり、都市部の富を農村部に配分する必要はないというのは、「国防」という観点が欠如した発想です。「防災」という観点も欠如しています。

国家全体を見て、国民が各地域でどのような営みを行うことが最も国益に沿い、人々の幸福につながり、かつ合理的であるかを吟味していくべきです。しかし、上から居住地域を指定していくというような全体主義的な発想は慎むべきです。

現在住民が居住している地域が存続できる条件を整備することが国や自治体の役割です。住民の生存権を満たすという観点から、サービスの維持が図られなければなりません。それを前提としながら、各地域ごとに集約居住を推奨し、小さな拠点で充実したサービスを提供できる仕組みを構築すべきです。

集落の消滅が加速します。過去に拡大した居住地域は縮小を余儀なくされますが、拠点として維持すべき地域まで失うというような愚策を放任してはいけません。生存権の観点から、地方・地域を再構成すべきです。


2006/10/12(木) 映画「それでもボクはやってない」

痴漢冤罪をテーマにした映画ができるそうです。周防正行監督、「それでもボクはやってない」。 

痴漢は卑劣な犯罪です。しかし、「真実」が分かりやすそうで、分かりにくい犯罪でもあります。いったん「犯人だ」と決めつけられると、「無罪」を獲得することが著しく困難になります。否認すると身柄拘束も長くなり、社会的には刑事手続き段階で致命的な打撃を受けることになります。

捜査機関により「自白」の「勧誘」が行われると、当事者心理としては、「取引」に応じる方がダメージが少ないと考えやすくなります。

刑事手続きとは何であるか。犯罪者に刑罰を与えるために必要な手続きであるという考え方もあります。正反対の視点から、無実の人間が「犯罪者」だと名指しされても、「無実」「無罪」を勝ち取ることができる被疑者・被告人の「武器」としての手続きであるという考え方もあります。圧倒的に優勢な国家権力(警察・検察)に立ち向かう一市民の武器が刑事手続き(上の権利)であると考えるのです。

後者は「デュープロセス」(適正手続き)の考え方に近いものです。憲法31条はこれを保障しています。

さて現実は。マスコミは警察発表が出た段階で「有罪」を宣告するような論調になります。多くの市民もそれに引きずられます。そこを踏みとどまって、「それはあくまで警察発表だ」という客観的な視点に立つ訓練が必要です。平成21年から実施が予定される裁判員制度では、裁判員の方々に警察・検察の主張を客観的に評価する態度が求められます。


2006/10/11(水) 通えるところに学校を!

現在でも、自宅から「地元」高校に通学することが不可能な地域があります。人口減少が加速すると、多くの地域で高校の統廃合が進み、そういう地域が増えてきます。

「知価社会」対応型の国民を養成するには、少なくとも高等学校までは義務教育であることが必要になります。そして子供の学習権の内容として、自宅から通学可能な学校があることが必要です。子供には、家庭で暮らす権利もあるわけですから。

「財政」の論理で高校の統廃合を行うのは、行政の責任放棄であるということが自覚されなければなりません。少人数での教育が困難であるという言い訳は、現在の通信技術を前提とすれば通用しません。「授業」は衛星放送でもいいでしょう。塾・予備校の出張講座という手法もあり得ます。「先生」は生徒のカウンセリングを行えばいいと考えれば、少人数の学校経営は十分可能です。

過疎地域を居住放棄地域にしない。これが行政の責務であるとの認識に立ち、地域の「インフラ」としての学校を再構築しなければなりません。小中学校の統廃合についても、当然のことながら見直しが必要です。

このことが俎上にのらない「教育再生」など無意味だと思います。


(参照)
平成18年9月30日:「安倍総理『所信表明』と公教育のあり方について」
平成18年10月1日:「塾を公認せよ」


2006/10/10(火) 北朝鮮の「核実験」は、戦前の「国際連盟脱退」

北朝鮮の「核実験」は、偽装なのか実験失敗なのか、よく分かっていません。北朝鮮国内で強硬派が実権を握ったという報道もあります。追加実験の可能性も指摘されています。

北朝鮮の行動は、世界を敵に回し、中国、ロシアという理解者を怒らせ、韓国の「太陽政策」の変更を余儀なくさせるという効果しかないように見えます。北朝鮮はかなり行き詰まっているのでしょう。

想起されるべきは、1933年、日本の国際連盟脱退です。1931年の満州事変に対し国際連盟はリットン調査団を派遣しました。その報告書は必ずしも日本に不利ではなかったのですが、日本側は硬化。リットン報告書が圧倒的多数で採択されたことを受けて、国際連盟を脱退しました。全権・松岡洋右は国内で英雄扱いされました。

この後、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアという「悪友」しかいなくなった日本は、破滅への道を辿ります。

これからの北朝鮮は、戦前の日本同様、合理的な行動が取れなくなる可能性があります。追いつめると暴発する可能性があります。かと言って、寛容な対応では、北朝鮮の強硬路線に屈したことになります。崩壊か暴発か。北朝鮮の未来がどちらであっても、周辺国にとって不幸なものになります。

「大東亜戦争」は自衛戦争だという意見を持つ方々が我が国にはいます。このまま北朝鮮を追いつめると、「大東亜戦争」の「相似形」になるのではないかと思われますが、「自衛戦争」論者の方々はどう考えられるのでしょうか。

非難と一定の制裁は必要であるとしても、この機会を利用して中国・韓国・ロシアとの連携を強化しながら、北朝鮮に合理的判断ができる機会だけは残す努力が必要であると思います。北朝鮮の中国への従属という要素は、戦前の日本と異なるところです。


2006/10/9(月) ポイントは稼いだが・・・焦りの安倍訪中

訪中し中国首脳と会談して、外交上のポイントをゲットした安倍政権。衆院補選には多少の追い風となるでしょう。

中国としては、安倍政権に釘を差したことにしたい。日本側は、靖国問題を参院選まで封印したい。このような双方の思惑が透けて見えるだけに、「時限爆弾」がセットされたという見方も可能です。 

安倍政権としては、衆院補選で負けると政権基盤が大きく損なわれるだけに、とりあえずの絆創膏であっても張っておきたいという心情であろうと思われます。

小泉政権は権力闘争を「チャンバラ劇」に仕立てたことと、劇的訪朝により拉致問題を国民の一大関心事にしたことで、長期政権を可能にしました。しかし、現在の最重要課題は「格差拡大」に象徴される内政にあり、外交上のポイントは、目眩まし的な意味しか持ち得ません。

小泉政権が積み残した課題を背負う安倍政権が「小泉劇場」の再現を狙うとしても、中国・韓国との関係改善を「視聴率の高いドラマ」に仕立てることは無理だろうと思います。内政上の困難を外交で切り抜けるしかないというのが現政権の実情です。

小泉政権・負の遺産の1つは、「サプライズ」の要件を厳しくしたということです。国民は驚きにくくなっています。マスコミが驚いてみせるしかありません。外交上のサプライズは、「北朝鮮の崩壊」あるいは「横田めぐみさん奪還」というようなドラマしかないように思います。

それがないとすれば、「景気回復」が地方や中小零細企業に浸透することが、自民党が参院選に勝つ条件になります。残るは、憲法問題での正面突破。これも、今国会での「安全運転」からすると、やりにくくなりました。 


2006/10/8(日) 「教育再生」は「落第」と「内申書廃止」から

安倍政権が「教育再生」を掲げています。その中味は、学校の監視、教師の監視、生徒の内面への干渉(愛国心)です。これは、公教育の硬直化、国家主義化を招くだけです。

公教育に対する信頼が揺らいでいる原因は、公立学校に「不良資産」が多いことにあります。やる気のない生徒、環境に問題がある生徒の指導に明け暮れていては、普通の生徒、真面目な生徒に多大な迷惑が掛かります。この現実をしっかりと見なければ、公教育の再生はあり得ません。

まず、駄目な生徒は落第させるべきです。卒業させる必要もありません。ただし、やる気が出てきてから「リカバリーショット」が打てる機会は保障されるべきです。生涯学習の拠点として「社会人学校」を創設します。落第した生徒、卒業できなかった生徒が希望すれば、そこに通うことになります。社会人が一念発起して学習のやり直しを行う場合にも通えるようにします。落第した生徒は、「同級生」と同じ環境では学べなくなることを覚悟すべきです。「甘えるな。自立しろ。やり直せ。」ということを徹底しなければなりません。

内申書は廃止すべきです。内申書で生徒を支配することをやめれば、教育現場は伸び伸びしたものになります。入学試験当日の体調云々の議論はあるでしょう。それは、「追試」を複数回行うことでカバーすればいいと思います。「進級試験」に落ちた場合も、「追試」を複数回行い、可能な限り「落第」させない配慮が必要です。救済手段を充実させながら、子供の学習権を充足させるべきです。

学校は「不良資産」から解放される。生徒は内心への支配から解放される。勉強が嫌な生徒は学校から解放される。このことで、公教育は大きく変わります。その代わり、授業とは分離する形で、学校のカウンセリング機能を充実させる。生涯学習の拠点たる「社会人学校」を充実させ、やり直しのきく社会を実現させる。

以上が私の教育再生案です。


2006/10/7(土) 生活保護と年金の関係は?

年を取って働けなくなると、年金で生活することになります。年金の掛け金を払わないまま年を取り困窮した人には、生活保護があります。そして、生活保護の給付の方が年金給付を上回る場合があり、そのことを問題視する人がいます。

これに対し、年金は正面玄関からの権利であるが、生活保護は裏口からの権利である。また給付の要件が異なるので、比較することは困難であると説明しても、納得してくれる人は少数です。努力した人よりも努力しなかった人の方がより多く給付を受けるということへの違和感を持つ人が多いということは、制度の正当性にも関わる問題です。

(ニュース)
2005年度の生活保護世帯数(月平均)は104万1508世帯と前年度より4・3%増となり、1951年度の統計開始以来、初めて100万世帯を突破した。

被保護者数も10年連続増加の147万5838人だった。新規の生活保護世帯は減少傾向にある一方、生活保護受給を続ける世帯が多く、保護世帯は13年連続の増加となった。

厚生労働省は、「いったん保護世帯となると長期化する傾向がみられる。長期化は、格差の固定化を示している可能性がある」と分析している。

同省が6日公表した社会福祉行政業務報告で明らかになった。05年度の内訳は「高齢者世帯」が45万1962世帯とトップ。次いで「障害者・傷病者世帯」38万9818世帯、「その他の世帯」10万7259世帯などだった。 (読売新聞) 


(コメント)
私の従来からの主張は、生活保護給付は「貸し付け」にすべきであるというものです。返済は義務づけませんが、多様な「返済手段」を用意します。将来困ることもあり得るから、「明日は我が身」という考え方で行う「事前返済」の手段も準備しておきます。

「返済手段」、「事前返済手段」の一分野として、社会奉仕のメニューをつくり、自主的に選択して実行してもらいます。どれだけの社会奉仕をしたのかを厳密にチェックする必要はないと思います。概ね自己申告を受理して「点数」を「貯蓄」します。

「社会奉仕」を「地域通貨」と連動させて消費に回すルートもつくり、複線構造にすることも考えていいと思います。地域通貨で社会連帯の輪を拡大しつつ、地域経済の活性化にも役立てます。「労働」として「通貨」で評価することが困難な「作業」(最低賃金制度を下回るレベルの労働しか提供できない人を、その評価−例えば時給100円−で雇用することは違法となるので、結果として働くことができません)も点数として把握することが可能になります。

子供の学習する権利を充足するための教育投資についても、奨学制度とは別に、子供自身への「貸付制度」を用意すべきです。大人になって国や自治体に「返済」することで、どのような境遇の子供にも機会均等が保障されるようにします。

「返済」「事前返済」の「社会奉仕」が歳出抑制につながるとともに、社会的連帯を強めることになるのであれば、「貸し付け」の効果を積極評価していいでしょう。貨幣経済だけで社会がなりたたなくなることを予見するならば、以上述べたことに限らず、様々な手法が開発されていいと思います。


2006/10/6(金) いじめ謝罪の滝川市教育委員会に見る、組織の病弊

女子児童が遺書を残して自殺してから1年。当初遺書を受け取ることすら拒んでいた滝川市教育委員会が、遺書が公表され、多くの抗議が殺到し、文部科学大臣の批判を受けると、あっさりいじめの存在を認め謝罪しました。

一言で言えば、「ことなかれ」組織なのでしょう。いじめがあったなどということは、あってはならないこと。あってはならないことであるから、確実な証拠がなければ認めるべきではない。教育委員会が所管する学校で「加害者」を出してはいけない。教育委員会の不祥事となることは避けなければならない。そのためには、「いじめ」はあってはならない。こういう論理であろうと思われます。

滝川市教委は「事実の把握に重点を置きすぎ、子供の気持ちになって考えるという基本的な配慮に欠けた」と釈明していますが、前段は「組織の論理に重きを置きすぎ」と「翻訳」すべきでしょう。

「あってはならないことは、ないことにしよう」。これが滝川市教委だけの問題ではなく、多くの組織に見られる「病気」であるところに深刻な問題があります。見たくないものは見えない。聞きたくないものは聞こえない。報道したくないものは存在(事実)を確認しない。滝川市教委を徹底批判するテレビも、同じ病気に罹っているような気がするのですが。


2006/10/5(木) 飲酒運転撲滅はタクシー代の必要経費化から

警察庁によると、秋の全国交通安全運動期間中(9月21日〜30日)に全国の警察が摘発した飲酒運転は3856件で、昨年より24.8%減少したということです。飲酒運転による事故も112件と昨年と比べて62.5%減っています。

ニュース報道が飲酒運転の問題を大きく取り上げたため、飲酒運転が増えているような印象になっていますが、福岡の3幼児死亡事故などの衝撃とニュース報道の取り上げ方の変化による社会の空気の変化で、ある程度抑止されたものと見られます。

しかし、あれほど大騒ぎしてもやっぱり飲酒運転はなくなりません。報道が沈静化すれば、また増える可能性があります。

飲酒運転の問題は、移動手段(特に地方)の整備と税制の問題とを真剣に考えないと本質的な解決にはならないと思います。両者は絡み合っていますが、税制の問題からアプローチします。

(公共)移動手段利用の経費は全て経理上「費用」として計上すべきです。企業においては業務上必要とされる移動手段が費用計上されることは当然としても、飲酒に関する場面(タクシー利用)でも、交際費云々の議論とは別に、移動に関わる経費として認められるべきです。個人の場合も、移動手段利用の費用は全て控除されるべき必要経費として認め、税制上優遇すべきです。

公共交通が発達していない地方では、タクシーを公共交通機関として積極的に位置付け、タクシー代を全て「経費」として認めていくことで、移動手段の確保が可能になります。

飲酒運転の動機というのは、極めて姑息なものです。お父さんの小遣いでは、酔ってタクシーに乗ることはできないのです。税制上、会社の「交際費」が限られています。「タクシー代は全て経費だ、控除可能だ」ということになれば、飲酒運転という「危ない橋」を渡らなくてもよくなる場合が大幅に増えてくるだろうと思います。


2006/10/4(水) 「美しい国」の教育とは

(ニュース)
安倍晋三首相は3日午後の衆院代表質問で、卒業式などでの国旗への起立と国歌斉唱を教職員に義務付けた東京都教委の通達を違憲とした9月の東京地裁判決に関連し、「今後とも全国の学校で指導が適切に行われるよう取り組んでいく」と述べ、教育現場での国旗掲揚と国歌斉唱の指導を継続する方針を表明した。共産党の志位和夫委員長らへの答弁。
 
志位氏が「(地裁判決は)良識のある当然の判決」と首相の見解をただした。これに対し、首相は「学校教育で国旗、国歌の意義を理解させ、尊重する態度を育てることは重要だ。学習指導要領を踏まえ、都は適切に判断し、対処してもらっている」と述べ、都側を擁護した。 (時事通信より)

(コメント)
安倍という人物が教育を語るとき、国家が国民を指導ないしは強制するという面しか考えていないのだろうと思います。

(国家→国民)という筋道だけではなく、(国民→国家)=国民の学習権が考えられない政治家は、民主主義を語る資格がないと思います。

国民(とりわけ子供)の学習権を充足させるために、国家が環境整備を行う責任を有することに重きが置かれなければなりません。

しかしながら安倍氏は、国民を国家にとって都合のよい存在につくりあげていくことしか念頭にないようです。石原都政による国旗・国歌に対する強権的指導を肯定し、さらに全国展開させようとする姿勢が顕著に示されている国会答弁です。

「美しい国」の教育は、こういった寒々しい内容であるということです。

(参照)
平成18年9月23日:「違憲vs非常識・・・都教委『通達』への違憲判決」
平成18年5月31日:「卒業式妨害への罰金判決・・・常識で考えよう」
平成18年5月21日:「『国旗・国歌法』における暴走の解明が必要」


2006/10/3(火) ディープインパクトは何故負けたか

深夜にもかかわらず多くの方がテレビに釘付けになったフランス・凱旋門賞。何故、ディープインパクトは敗れたのでしょうか。

能力的には1位だったと思います。晴天、良馬場。仕上がり万全。騎手は当代随一の武豊。

マイナス要素を探すと、(1)これまでと違う位置取り、(2)ライバルが後方待機しての遅いレース展開、(3)4歳馬の負担重量が優勝、先着した3歳馬より3.5kg重い、(4)前走からの期間が長かった、(5)凱旋門賞独特の雰囲気。なお、(6)意外に馬場が重かったという報道もあります。しかし、これらが決定的な要因になるかというと、どうかな、というところです。

かなり賢い馬のようなので、精神的な問題があったということも考えられます。状況を判断して「勝った」と思ったのかもしれません。シンボリルドルフがゴール直前、伏兵に敗れた天皇賞を思い出しました。もしやと思うのは、燃え尽きているのではないかということです。もういちど気を取り直して、世界制覇してもらいたいものです。

前評判が良く、コンディションも最高。こういうときに勝てないことがあるというのは、人間の世界でもよくあることです。「好事魔多し」とも言いますが…

小沢一郎氏が復帰して民主党が万全の態勢で参院選挙を迎えたが、さほど能力のない3歳馬(安倍氏)に敗れるという悪夢は見たくないものだと、妙な連想をしてしまいました。こちらは、負担重量(マスコミ支配)が重いので、心配です。


2006/10/2(月) 英語学校、あるいは塾・予備校で「英会話」の「免許」を

中・高・大学10年間勉強して英語がろくすっぽ話せない。これが大多数の日本人の悩みです。私もその一人です。

英語が受験科目になっており、本来人間同士のコミュニケーションの手段であるはずの言語が、あまりにも堅苦しく教えられてきたことに問題があるのではないでしょうか。もっと伸び伸び楽々学ぶべきです。大のおとなが難行苦行の挙げ句、英米の3歳児に負けるような話ではないはずです。受験科目から外し、気楽にやるべきだと思います。

しかし、受験科目から外せば全体的な英語のレベルが低下する懸念があります。また、語学としての英語(外国語)を学ぶ意義は「会話」にとどまるものではなく、国語の勉強の一環でもあるし、外国の言語を解析することで、論理的な思考を養うことにもなります。そういう意味では、学校教育から「英語」を外すことは妥当ではありません。

このあたりの調和点として提案したいのは、コミュニケーションの手段である「日常英会話」と、語学としての「英語」の分離です。前者は、自動車免許と同じ「資格」とし、学校でも塾、予備校、英語学校でも、「一定の到達度」が確保されたと認められる場合に「資格」を与え、公的なものとして通用するようにします(自動車免許の更新と同じく、定期的な「講習」は必要だと思います)。

中学・高校の卒業資格としての「英語」は、この資格で足りることとします(中卒は2級、高卒は1級)。高校・大学入試における「英語」はなくす方向で誘導します。「入試英語」で振り落とそうとすることで、多くの生徒が「迷路」に入り込むのですから、入学後に必要な英語力の基準を示す意味で、合否判定の対象としない前提で「英語の試験」を実施するという方法を考えてもいいと思います。将来を展望する生徒は、得点を意識せずに、じっくり楽しく英語学習ができることになります。

「日常英会話」については、聞く・話すが主眼になります。「英語」は読み・書きというような大雑把な区分を設定します。「日常英会話」については、国民全てができるように政策的な誘導を図ります。「資格」の難易度は、自動車教習所の学科試験程度を目安にすればいいと思います。英語への恐怖心をなくし、他国の人とコミュニケーションを取ろうという積極的な態度を涵養できれば、「日常英会話」の意義は達成できたことになります。

語学としての「英語」を教養科目化し、コミュニケーションツールとしての「英会話」を資格として公認する。これが私の提案です。「英語」のプレッシャーから解放されれば、我が国の国民性はもっと開放的なものになるでしょう。


(参照)
2006年9月30日:「安倍総理『所信表明』と公教育のあり方について」 

2006年10月1日:「塾を公認せよ」 


2006/10/1(日) 塾を公認せよ

公教育を論ずる際に避けて通れないのは、「塾」ないしは「予備校」の問題です。私は、塾の役割・機能を正面から認め、学校教育を補完する存在として認めていくべきだと考えています。具体的には、教育バウチャー(利用権、引換券)<=公が負担>の受け入れ機関として塾、予備校を認めるのです。それも、緩やかな条件で認定します。塾・予備校は子供や保護者が選ぶのですから。

地方、取り分け山間僻地に住む子供達の教育は困難です。複式学級で高度の知識を得ることは並大抵ではありません。そういう場合、衛星放送などで予備校の優秀な教師に授業をしてもらうということがあっていいと思います。それも、複数チャンネルがあれば、「優秀な教師」「優秀な予備校」同士の競争により授業内容は高度化します。僻地に限らず、全ての地域で行っていいと思います。

公教育が全てを解決しなければならない、学校の先生が全てを教えないといけないという発想から自由になるべきです。公立と私立の連携、塾と学校の連携により、より高度な教育がどの地域に進む子供にも提供できる体制が必要です。

優秀な教師=高度の授業をする人は限られています。「先生」の全てに優秀な講義を期待するのは、土台無理な話です。それならば、「授業」は優秀な「講師」に委ねるべきです。教員免許など無関係に優秀な講師を獲得する必要があります。(教師の免許更新制度をやったところで、教師の資質向上にそれほど大きな効果がある訳ではありません。落ちこぼれ教師を排除する程度です。むしろ、教師の思想統制に用いられる危険性を認識すべきです。)

上記の施策が実施された場合、教育学部を出て免許を取得した「先生」の立場はどうなるのかという疑問が出てきます。心配ありません。「先生」には重要な活動の場があります。子供のカウンセリングです。子供の到達度に応じた学習の補完的な指導、子供の人生設計に対応したクラス編成や講義内容選択のアドバイス、個々の子供の悩み相談などが、その内容として考えられます。

よりよい授業を行う専門家と個々の子供の個性を知るカウンセラー。その両方が子供には必要です。子供を中心に、公教育、私学、塾とが連携し、授業の専門家である「講師」と、子供のカウンセラーとしての「先生」とが教育を担うという発想が必要だと考えます。これができれば、「教育立国」が可能になります。「教育」を再定義しなければならない時代だという認識が必要です。


(参照)
2006年9月30日:「安倍総理『所信表明』と公教育のあり方について」


玉井彰の一言 2006年10月 四国の星ホーム一言目次前月翌月