・萌え特集を終えるにあたって
  ――まとめと感慨――


  随分長いテキストだったが、この萌え特集を終える事にしよう。まだるっこしい
 長文を費やしたものの、私が指摘したものは実に少なく、指摘の根拠を論じたり
 引用したりする事に多くの文章を費やした。それでも論拠が足りない印象が否め
 ないなが、長期戦になってきて疲れてきたし、どのみち今はこれ以上のテキストを
 書けまい。今後おりに触れて、萌えとオタクのセクシャリティに関連したファクター
 を紹介していくことにしようとは思う。


  今回の特集で私が指摘したものの、簡単に箇条書きしてみよう。


 0.まず、議論を開始する前段階として、参考までに萌えの歴史主要な考え
 ついて紹介を行った。

 1.萌えに供されるオタク達が好む萌えキャラは、“決してNoを突きつけない、
 従順でオタクの願望をそのまま受け入れる性質を持っている”ことを指摘した。
 なお、オタクの願望を受け入れるに適当でないキャラは選ばれないし、“合わない
 キャラ”とみなされることになる。
 (→拒否を示さない萌えキャラ達)

 2.ツンデレやお姉さん系も含め、萌えキャラ達はオタク達が願望するままの
 振る舞いを行うので、オタク達の望んだままの願望は萌えキャラによってそっくり
 そのまま提供されることを指摘した。これらの帰結として、オタク達は萌えキャラ
 という反射鏡を通して、自分の願望そのものをそのまま貪っていると考える事も
 出来る。脳内補完や同人といったデータベース消費的な構造は、こうした営みを
 支えるのに一役買っている。 
 (→脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係)


 上記の萌えの現状を踏まえたうえで、また本サイトのこれまでのテキスト群の
 集大成として、私は萌えオタク達の多くに認められる精神病理に関する議論
 を呈示した。


 3.現在“萌え”を消費している1970年代以降に生まれたオタク達の多く(過半数
 を超えると推測)は、劣等感や自己不全感を引きずっている可能性が高い
 この心的傾向を示唆するものとして、コンプレックスの隙間を埋めやすい
 (萌えを代表とする)オタク趣味の傾向、生活歴上の傾向、オタク自身の実際
 の挙動など、様々な根拠を挙げる事が出来る。
 (→オタクの精神病理としての劣等感や自己不全感)


 4.オタクの防衛機制を観察することを通して彼らの葛藤に接近してみた。
 彼らが適切な防衛機制の発動によってどのような葛藤を防衛しているか?
 観察の結果、セクシャリティや対人関係に関する劣等感や自己不全感に
 まつわる葛藤が防衛の主な対象となっている可能性に私は思いを馳せるに
 至る。さらに、オタクコンテンツ・オタク文化が、こうしたオタクの精神病理と
 親和性の高い(或いは葛藤を防ぐか和らげる)効果を持つ事にも注目した。
 (→オタクにみられる防衛機制)


  長々とした議論が呈示したのは、主として以上のようなものである。これらを
 補足するものとして、二次元コンプレックス脱オタに関連したテキスト群も
 幾つか提示した。このなかで私が最も強調したかった点は、「萌え文化・萌え
 コンテンツは、第三世代以降のオタクコンテンツ消費者(早い話がオタクだ)
 心的傾向と相補的な関係にある。彼らは高確率で(異性をはじめとする対人
 関係の)劣等感や自己不全感を心的傾向として持っており、萌えコンテンツや
 萌え文化はこうした心的傾向に由来する要請に応えている」というものである。

  東浩紀氏の『データベース消費』は萌えコンテンツがオタクの脳内で円滑に
 形成・消費される機序をすっきりさせてくれるが、オタクという集団(より厳密には
 当該オタク集団)の精神病理の存在を否定するものではない。よって私は、
 萌えコンテンツの構造に関する説明は『データベース消費』の考え方を全面的に
 採用しつつも、現在のオタクという集団に特有の心的傾向が存在する事を指摘し、
 萌え文化や萌えコンテンツが彼らの劣等感や自己不全感によって要請され発展
 してきたことを強調する。この指摘は萌えコンテンツの構造を説明づけるものでは
 ないが、萌えコンテンツがオタク界隈でここまで発展してきた理由について主要な
 要素のひとつを提供するものと信じている。



 ・結論?

  第三世代以降のオタク達には、特有の心的傾向(精神病理)が存在している
 その中核と私が考えているのは対人関係や異性関係にまつわる劣等感や自己
 不全感で、彼らのコーピングや社会適応の範囲などに大きな影響を与え続けて
 いる。また彼らのこうした心的傾向は、オタク文化やオタクコンテンツの系統樹
 とも相補的な関係を持っていると考える。劣等感・自己不全感が萌えオタ達の
 なかに誕生/存在し続ける原因としては、学童期以降のスクールカーストや、
 その後の人生行路、異性獲得競争における苦戦などが第一に考えられる※1
 オタクコンテンツやオタク文化、彼らの交際範囲などは、彼らの苦しげな心的
 傾向に伴う葛藤を軽減させる為に役立っており、劣等感や自己不全感に伴う
 問題を(少なくとも今その瞬間には)最適化している。本田氏による『電波男』や
 多くのぬるいオタクコミュニティは、この路線を踏襲したものと捉えることが
 出来る。特に『電波男』の“護身完成”は、萌えの利点を生かした洗練された
 やり方として高く評価したい――脱オタ以上に難易度が高いのが難点だが。

  ただし、この手の最適化は劣等感や自己不全感をその場で緩和するには
 優れていても、変革させる可能性には乏しい。短期的には効果的でも、中期〜
 長期的には当人の適応を低下させるリスキーな選択も多々存在しており(例:
 ネットゲームによる自己実現、など)、『電波男』に描かれる“護身完成”は例外
 としても、長い目で見た時に劣等感や自己不全感がどの程度残存or蓄積する
 のか、予断を許さない選択だとは言える。

  一方脱オタ※2は、様々な副作用やハイコストハイリスクという問題はあるに
 せよ、もし成功すれば劣等感や自己不全感をダイレクトに改善する事が出来る。
 勿論この場合の脱オタは、ちょっと高い服を買ってくる程度のものではなく、
 異性間も含めたコミュニケーション上の成功体験をそれなりに積むものでなけ
 ればならず、コミュニケーションの経験と質を大幅に向上させるものでなければ
 ならない。ただし脱オタだけが唯一の方法と考えるのは早計で、脱オタという
 手法に頼らなくても(例えば仕事上の成功とか)劣等感や自己不全感をダイレクト
 に改善する方法は幾つも存在している。また、前述のぬるオタコミュニティの
 維持・形成や『電波男的戦略』も、それが中期〜長期に渡って有効ならば十分
 考慮に値するという点は忘れてはならない。脱オタは非常にハイコストにも
 関わらず失敗確率を伴っているため、必ずしも全てのオタクにとってベストの
 戦略とは限らない。その点には十分な注意と配慮が必要だろう。



 ・ベタベタですが

  今回の指摘はおそらくごく当たり前のベタベタな事なんだろうと思う。オタク界隈
 のフィールドワークを通して得られた所見をまとめて、それをこちらが良く用いる
 視点(職業的な傾向が強い視点)と症例検討をまとめてテキストにしただけと
 言われればその通りであり、知的論考としては洗練されていないことこの上ない。
 それに、わざわざ防衛機制がどうとかデータベース消費由来の萌えの構造が
 どうとか言わなくても、おそらく多くの人達が薄々感づいているような気がする。
 色々と言いづらい&言ってもしようがないと思って言わないだけで。

  私より遙かに優れた論者達が、このような(1970年代以降生まれの)オタクの
 心的傾向と萌えの関係について無感覚だとは正直考えにくい。例えば斉藤環
 先生あたりは、それこそわざわざラカンを用いるまでもなく、現代病理と絡めて
 裾野の広い議論をいつでも展開出来るんだと思う。ただ彼らにも立場がある
 だろうし、誰もが知っているベタな事に紙幅を割く暇も無いから指摘しないだけ
 なんだと推定している。繰り返すが、私が今回行った指摘はベタで面白みの無い
 ものに過ぎない。知っていて当たり前の前提を指摘したに過ぎないわけで、より
 優れた論者達は、第三世代以降のオタク達の心的傾向について十分な見積もり
 を持ったうえで高度な議論を展開しているのだろう。

  だがネットをぼんやり漂っていると、こういうベタな傾向を全く心得ないか、
 ベタな傾向と相反する議論を展開しようとして無理が祟って倒壊する人を
 見かけることがある。ひょっとすると、文献的研究や文献的考察だけに
 おんぶにだっこのあまり、文献には載せるまでもないベースラインを知らずに
 議論をしようとしている人もいるかもしれない。そうした人達に、私のベタベタな
 指摘が役に立てばいいなと思う。少なからぬオタク達(20代〜30代の)が抱えて
 いる心の十字架、劣等感と自己不全感。脱オタという手法について議論が発生
 するのもその為だろう。また、オタク文化が現在のような方向に流れていくのを
 彼らのこうした心的傾向を全く無視して説明づけようとするのはどうかと思う。
 『データベース消費』の考えのような、構造を明らかにするタイプのメタな視点の
 試みにはこうした心的傾向を忖度する作業を要さないとは思うし、そういう視点
 が昨今流行だというのも承知しているが、それだけでは取り残されてしまうもの
 については異なったアプローチが必要だと考える次第である。

  オタクを調べたがっている人間の一人として、そしてこういう視点を提示する
 のが好きな人間の一人として、私は今後も(特に第三世代以降の)オタク達の
 精神病理に注目していこうと思う。加えて、外部から提供されるメタな視点と
 ハイブリッドすることによって、より統合度の高いオタク描写を企てていきたい
 と偉そうな事を書いてみる。“オタクのセクシャリティと萌え”に関する特集は
 これで終了するが、まだまだ書き残した事はある※3。アマチュアで本読みが
 苦手な私に出来る事は限られているだろうけど、今後もオタク研究に微力を
 尽くしたいと思う。



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 special thanks

  今回の萌え特集を展開するにあたり、多くの人達の協力を得て、多くのサイトや
 本を参照・引用させて頂いた。私の大切なオタク仲間、非オタクの仲間、ネトゲ仲間、
 インターネット上の先人達に謝意を表したい。

  とりわけ、私の価値観やサイト構成に決定的な影響を与えて下さったCOMME CA
 DU NERDのodn氏と、恋愛ゲームZERO(現Sociologic)の秋風氏に、繰り返し御礼を
 申し上げます。ありがとうございました。





 【※1非難する言葉は幾らでもある。】

  加えて、もしかすると“オタク文化やオタクコンテンツに対する世間からの冷たい
 視線”も悪影響を与えている可能性は一応あるかもしれない。私が想定する
 こうしたオタクの殆どは、おそらくは“オタクになった→劣等感や自己不全感
 が膨らんだ”というよりはむしろ“劣等感や自己不全感が膨らんでいた→結局
 オタク界隈しか残っていなかった”という側面が色濃いと推定している。しかし、
 オタクとしての生き方を選んだ事によって、劣等感や自己不全感を助長され
 やすい場面が増加した可能性にも目を光らせておいたほうがいいだろう。

  もちろん、オタク趣味がどうこうというよりは、服装に無頓着だったとかいった
 コミュニケーションスキル/スペックによる侮蔑・差別の蓄積が決定的であって
 オタク趣味そのものが劣等感や自己不全感を助長するものとは考えにくい
 という私の意見は依然として変わらないが。




 【※2脱オタ】

  脱オタ、特に私のサイトや多くの脱オタ関連サイトにおいて規定されているところ
 の脱オタは、オタク趣味をやめる事を目的とした営みではない。そうではなくて、
 オタクとしての(或いはオタクという言葉と不可分の関係にある)差別や侮蔑と
 オサラバして劣等感や自己不全感を回復する事を最終目的とした営みである。
 脱オタを実行する“戦時体制”には膨大なリソースを要するため、目的遂行の
 一手段としてオタク趣味が放棄される事はあるが、オタク趣味の放棄そのもの
 は目的ではなく手段でしかない(ただ、一次的にせよオタク趣味に憎悪する時期が
 あったほうが脱オタ推進の心が挫けにくいのかもしれない)。ちなみにファッションは
 その触媒としての役割を果たすが、あくまで触媒であって、一連の化学反応の主役
 ではない

  よって脱オタという語彙は、将来“コミュニケーションスペック改善”“とか、何か
 別の呼び方に変化したほうがまぎらわしくなくて良いような気がする。現在の
 脱オタという語彙の用法は、時にdiscussionにおいて余計な誤解や行き違いを
 招いているような気がしてならない。新語を造るのが得意な人達に、是非とも
 素敵な呼び方をつけて頂きたい。




 【※3まだまだ書き残した事はある】

  今回の特集がカバーすべき範囲を逸脱する範囲を含めて、書き残したことや
 きっと私には書ききれないであろうことをちょっと幾つかメモっておく。


 ・“セックス爆弾”としての萌えキャラの性的魅力は、リアル女性を超えるか?

  進化生物学畑のリチャード・ドーキンス博士は、「性的魅力を発信する身体的特徴
 を人工的に強調した個体は、異性個体を惹きつけまくる」事を指摘し、この現象に
 “セックス爆弾”という呼び名を与えていた。例えば自然界ではとても生きていけない
 ような長い長いしっぽを(シンメトリーを保ったまま)くっつけられたツバメは、通常の
 雄よりも雌をたくさん惹きつけることが出来る。こうした性的信号の人工的増幅は、
 人間、とりわけ女性に顕著に認められるわけだが、萌えキャラにおいてはいっそう
 認められる。シンメトリーの保った顔、ほっそりとした顎、大きく見開かれた少女の
 ような目、くびれた腰、などなどは、萌えキャラが架空の存在であるが故に、際限
 なく強調することが出来る。性格なども含めて、萌えキャラはリアル女性よりも
 “セックス爆弾”としての自由度が高いと思われる。だとすれば、脳内補完が最も
 適切に実施された萌えは、リアル女性の魅力を上回ってしまうのではないか。
 そこまで行かなくても、“セックス爆弾化著しい”萌えキャラとの接触が濃厚なほど
 リアル女性への魅力が相対的に薄れてしまうのではないか。ただし、生殖という
 文脈から離れがちな、極端な幼女志向については別の検討が要請されるのは
 断っておかなければならない。仮説だらけになりそうだが、興味あるテーマだった。


 ・萌えにみられるような自己愛的営みと、現代の社会病理との関連

  萌えに含まれる自己愛的営みは、萌えだけのものか?そうではあるまい。
 現実の男女交際においても、こうした傾向はみられるのではないか?あるいは
 子どもを相手にする時の親達には?職場で成功を夢見て日々競争に明け暮れる
 ビジネスマン達には?KernbergやKohutに代表される諸議論(注:リンク先の本は
 私のお気に入りだが、素人が読むとやう゛ぁいのかもしれない)に思いを馳せると、
 オタク界隈や萌え界隈だけで発生しているとはちょっと考えにくいわけで、より
 裾野の広い議論を展開出来るような気がする。例えば萌え・現在男女交際・引き
 こもりなどとの相似や相違を調べる事は、“自己愛に関連した昨今の傾向”を知る
 にあたってヒントをもたらしてくれるかもしれない。準備と勉強が足りないため、
 私はこのミッションを放棄するしかなかった。


 ・これまでの考察を踏まえて戦闘美少女を再検討してみる

  今回の特集では、萌えにおけるキャラクターとオタクとの一方向的関係を検討
 していくうちに、斉藤環先生に“ファリック・ガール”の概念と共通項の多そうな、
 “萌えの自己愛的側面”を指摘するに至った。また、キャラとオタクとの距離が零
 である帰結として、オタクがキャラに自分を重ねるという現象が発生し得るという
 点も、“ファリック・ガール”と共通するものが感じられる。これまでのテキストで
 “萌えの自己愛的構造”“キャラとオタクの距離が零”“オタク自身の精神病理”を
 指摘してみた今、これらの前提をもってもう一度戦闘美少女を再検討してみる
 どうなるのだろうか。ラカンを用いなくても『戦闘美少女の精神分析』に近い結論
 に至る予感がするが、細かい所で違った部分も出てきそうな予感がする。しかし
 頭が疲れそうだったので今回はやめておくことにした。



 ・おそらく存在する、「どうにも手のうちようの無いケース」の問題

  どうすればいいんでしょうね?



  こうした個々のテーマは、それだけで一つかそれ以上のテキストを費やしてじっくり
 検討する価値があったと思われる。だが、時間や能力の問題から、今回は萌え特集
 から割愛するに至った。