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さよならソニア(東京写真文化館)
東京写真文化館で始まった写真展を見始めて数分、写真の横に添えられたエッセイを読みながら、僕は涙なくしては見ることができなかった。
写真自体も単純化された色調と、切りつめられた無駄のない画面構成で、すばらしいものであった(12月13日)。
東京写真文化館 http://www.tpcc-akasaka.com/ (〜2004年1月25日)
モチーフも
・風力発電のプロペラ
・コヨーテキャニオン
・秋の紅葉
など、僕の好きなアメリカの風景も多い。
複雑な形や風景が切り取られて単純化され、それらのモチーフがさらに色彩によって強調されている。
その背後にあるソニヤの明るさと生命への執着心・生きる者への豊かな愛情を感じる。
----- これは、きょう、『さよなら、ソニヤ』を読み終えて、改めて感じたことである。
「対象を絞り込むの。本当の『絵』は、最初にとらえた構図のなかに潜んでいることが多いのよ。これからどんどんたくさんのものを見て、もっと細部を見つめるようにするといいわ。対象を絞り込む・・・・あなたが求めるイメージが隠れているところに焦点を当てるのよ。大きな絵のなかにある本当の『絵』をみつけなくちゃ!」
(『さよなら、ソニヤ』(アンジェロ・ロメオ 山内絵里香訳・求龍堂)P.299)
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ソニヤ・ブラディーはチェコ・プラハにユダヤ人として生まれ、両親をナチスに奪われた。
600万人の命が奪われたホロコーストや死の行進の中を強い忍耐力と不屈の行動力で生き延び、アメリカに渡り、アンジェロ・ロメオと結婚する。
マンハッタンの Hell's Kitchen で幼少期をすごしたアンジェロも悲しい過去の思い出を持っていた。アンジェロも写真を始め、2人でカメラマンとして生涯を伴にする。
ソニヤはナチスから逃れて終戦を迎え、チェコに戻った後、ヨーゼフ・スデックの助手として働いていた。
豊かだった父親が小さなソニヤに Rollei Flex をプレゼントしたことが影響していたのであろう。
・・・ヨーゼフ・スデックは第一次大戦で右腕を失った「レンズの詩人」と呼ばれるカメラマンであるが、僕は1980年頃に彼の存在を知った。銀座の写真展で見たその写真は、確か馬が森を横切る、横長のモノクローム写真だったと記憶している。
ソニヤはチェコから叔母のいるアメリカに渡り、やはりまたカメラマンの助手として働き、そのうちにアンジェロに出会う。 程なく結婚した2人は、写真で生計を立てるが、最初は収入に乏しく、仕事に必要なレンズやカメラを質に入れながら収入が入ると取り戻す、という生活だったようだ。 ヨーゼフ・スデックの写真展をアメリカで開いて有名にしたのがソニヤとアンジェロだと知って僕はますます親近感を抱いた。
ソニヤとアンジェロは次第に有名になり、フォトジャーナリズムに進む。その中で、プラハに戻った際(1968年)、ソビエトがプラハの春を弾圧するのに遭遇し、それを記録して話題になる。 ナチスのユダヤ人迫害の記憶が、ソ連のチェコ侵略を目の当たりにしたソニヤにシャッターを押させる。
Upper West 73丁目のアパート
その後にセントラルパークを見下ろすアパートに転居
Vermont の赤い別荘 Wild Wood
2人のカメラマンとして愛情あふれる生活が『さよなら、ソニヤ』にはみずみずしく書かれている。
読んでいると、再び写真展に行きたくなる。
・・・・がんに侵された晩年のソニヤ。
スプーンが手から落ち、カメラを再び握ることができなくなる。
「幸せとは自分で作り出すもの」(ソニヤ)
Last Samurai
やはり、渡辺謙である。
姫路の書写山圓教寺にてロケがスタート。
圓教寺は西の比叡山と称される寺である。トム・クルーズはヘリコプターと車で通ったとのこと。
一部、知恩院(東山区)でもロケ撮影が行われた。
日本ロケ後、ニュージーランドやカリフォルニアでも『ラスト サムライ』の撮影が続いた。日本的でない植生に違和感を感じることもあったが、やむを得ないのだろうか。
人生のメビウス
10 Minutes Older『人生のメビウス』、は、“結婚・誕生・進化・孤独・死・運・郷愁”という誰の人生にも訪れる時間を10分に凝縮させる。
何故酒を飲むのか(トーマス・ラブ・ピーコック 「メリンコート」)
酒を飲む理由に二つある。
一つは喉の渇きを癒すため。
もう一つは喉の渇きを予防するため。
わたしはたぶん、渇きを予想して飲むのだろう。予防は治療よりいいいからだ。
「魂は」聖アウグスティヌスは言った。「渇きの中では生きていけない。」と。
死とは何か。塵であり灰である。渇き以外の何ものでもない。
Ansel Adams 写真展
10月22日〜12月7日
http://www.tpcc-akasaka.com/
原直久「欧州紀行」
EOS Kiss Digital
EOS Kiss Digital 購入
EF 50/1.8
EFS 18-55/3.5-5.6
発売初日である。
映画 Hero
コンタクトレンズを落としそうになる
儒教的な価値観
Matrix Reloaded とは異なる
東京ジャーミー
12時の礼拝が終わった直後の撮影。
代々木上原 Bonte
安曇野・木曽へ
【1日目】
奈良井宿・楢川村
中村邸
【2日目】
碌山美術館
旧開智学校
大王わさび
【3日目】
とんぼ玉
焼いて食べる
釣堀 ヤマメ・ニジマス
森のおうち
【4日目】
上高地
朗読者
朗読者/ベルンハルト・シュリンク
文盲
15歳近辺の不安定さ
カタルシス
書くこと・話すこと・朗読すること
Edward Weston
Edward Weston
PGI
Photo Gallery International
「サイゴンの昼下がり1994〜2003」
横木安良夫写真展
「サイゴンの昼下がり1994〜2003」
An early afternoon of Saigon 1994〜2003
5月28日(水)〜7月21日(月)
http://www.tpcc-akasaka.com/
「Into Herself 〜アフガニスタンの生きる力」
今岡昌子写真展
「Into Herself 〜アフガニスタンの生きる力」
■日時
5月31日(土)〜6月9日(月)
http://www.re-birth.net/
Pizza / About Schmitt
About Schmitt
Omaha の生命保険会社 Woodmen で Actuary をやり、定年で退職した男。
退職時のタイトルが Assistant Vice President なので、平均的なサラリーマンということなのだろう。
彼には個室があったが、部屋のドアは、軽い音のする安普請のものだ。
Omaha は僕にとって極めて思い出深い。Sitel(Call Center)があるため Philadelphia から何回も出張したし、長いときには1週間以上滞在した。
それがこの映画を観る気になった理由だ。
Woodmen のビルは図抜けて高いためその存在は知っていたが、本当に生保会社だったことはこの映画を観たあとにWEBで調べて知った。
Schmitt の後任は Demoine から来た若手の男。保険業界で Demoine と言えば、新興勢力だ。時代(世代)の変化を感じさせる。
この後任の男の部屋は後で出てくるが、なぜか高層部にあり、見晴らしが良く、明るい。
Schmitt には婚期をいささか過ぎた一人娘が Denver におり、もうすぐ結婚する。Schmitt は相手やその家族が気に入らない。
Motorhome での全米旅行を始める前に、妻は脳溢血であっけなく倒れてしまう。
寂しさの極致の映画である。
最後に Foster Parent になっているアフリカからの子供の葉書が届き、そこには太陽の下で手をとりあう2人の親子(?)が描かれているが、66年を生き、改めて孤独を感じている Schmitt に対しては、何と残酷なのだろうか。
Omaha 空港の懐かしい風景。WH Smith, Omaha Steak, Midwest Air の飛行機。
ジャックニコルソンの渋い演技が生きているが、僕は一緒に働いた JAK氏と完全に重ねて観てしまった。
----- JAK氏を思い出したら急にPizzaが食べたくなった。Pizza Hut で注文。Large を2枚。各種割引を効かせ、4200円あまり。やや高い気もするが、こんなものか? Pizzaを田の字型に切るのが大嫌いなLD氏はどうしているだろうか?
(旧)丸ビル
前川國男
JHMorgan
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丸ビル(正式名称:丸の内ビルヂング)は、米国の建築家ポール・スターレットとウィリアム・スターレットの指導により、桜井小太郎を中心とする三菱合資会社地所部の設計とニューヨークの建築会社フラー社の施工で、大正12年に完成した。
映画の字幕
戸田奈津子
日本語字幕
年間40本
1本の映画を3回観る
報酬は40万円程度
1秒に4文字
「練られた字幕」と「字数の制約」の間に「ベストな字幕」がある
「いい映画はどんなに内容が難しくても字幕が決まる」
奈良原一高 「天」
PGI
奈良原一高 「天」
PGI
失敗!
写真展初日の夕方には行くものでない。
パーティーの疎外感
もう一度行った。
Photo Gallery International
その他
荒木経惟
花人生
東京都写真美術館
Nina Simone の死
六本木 Hills
Chicago
Beacon Theater in Manhattan 1993
Point of No Return
ハービー・山口写真展「ロンドン・コーリング」
ハービー・山口写真展「ロンドン・コーリング」
東京写真文化館
三好耕三「櫻」
8X10
露出計を使わない
シーガル
Photo Gallery International
http://www.mm21railway.co.jp/www/mm21.html
杉山守 「Life」
シンクを横からとった金属感 Photo Gallery International
横浜中華街はおいしいか
【ダメ】
順海閣
横浜大飯店
【まあヨシ】
同発
四五六菜館
華正楼?
桃花?
Pentti Sammallahti "Photographs"
Photogallery International 写真展
Pentti Sammallahti "Photographs"
動物のいう静かな風景。モノクロ
Feb. 5-28, 2003
Photo Gallery International
春のカルボナーラ
メディアプリント=補正ナシ
デジカメプリント=オペレータ補正
フジフィルム フロンティア コントラストは「弱2」が良い
ノーリツ デジタルプリントマシン
鳩山会館
鳩山会館(昼前=2階の南向きの広間の光が良い)
マイケルケンナ写真展
東京写真文化館
La Fete Tama 南大沢
La Fete Tama 南大沢 Virgin Cinema
アメリ
新宿My City・Shunkan・トムヤムクン/焼き鳥半額
新宿 Shunkan Luuk Chang トムヤムクン
駅前の焼き鳥屋から手書きのはがきで半額券が来た。手書きで来るところが泣けてくる。ヒマなんだろうなあ。店長カワイソ。
当然家族4人で押しかける。
ブラックショールズ
原油スワップ
Random Walk の非現実性
カントリーリスク
War Risk
技術革新リスク
Kiev 600万画素相当
東京都庭園美術館:朝香宮邸
アンリ・ラパンの内装、ルネ・ラリックのガラスレリーフ、アールデコ様式(1930年頃)
一時期西武鉄道の所有
【アンリ・ラパン】
画家、インテリア・デザイナー。
新古典主義系統のジェロームに師事し、サロンには1900年頃から出品。
1903年頃から サロンに家具を出品しはじめ、1910年代には凝った材質を用いシンプルに様式化した家具デザインを出品した。
1924年に国立セーヴル製陶所と装飾美術学校の美術部長に就任し、1925年のアール・デコ博覧会では装飾美術家協会の副会長として博覧会開催に力を尽した。
同時に、自らもアール・デコ博において、フランス大使館パビリオンの大広間・食堂、 国立セーヴル製陶所パビリオンの庭園デザインをはじめ、多くのパビリオンで才を振るった。
朝香宮邸建築においては、昭和4年に朝香宮自身から内装を依頼された。
【ルネ・ラリック】
宝飾デザイナー、ガラス工芸家。
パリとロンドンでデッサンと彫刻を学び、1900年のパリ万国博覧会では、植物、昆虫、裸婦などをモチーフとした官能的な作品により、アール・ヌーヴォーの宝飾の分野においての第1人者となった。
1906年には香水商コティから香水瓶のデザインを依頼され、これを契機にガラス工芸に着手。
芸術性も高く、なおかつ量産にも応えることのできるように考案された型押技法や型吹き技法を駆使し、カーマスコットなどの小品からモニュメンタルな大作まで幅広い制作活動を行なった。
1925年のアール・デコの博覧会においては、自身のパビリオンをもち、その傍らに記念碑的なガラスの噴水を制作するなど、アール・デコのガラス工芸家としても活躍した。
朝香宮邸においては正面玄関ガラス扉、大客室と大食堂のシャンデリアを制作。
ソビエトカメラウィルス
2002年の年初に、ごく一部で流行中(?)のソビエトカメラウィルスに感染した。発端は2001年12月に気まぐれで買った「ソビエトカメラ党宣言」である。中村陸男氏のテキトーな紹介を読みながら、「ライカを買える金などないけれど、一度、金属製の古いカメラを使ってみるのもいいな」「アクセサリーとして考えればマアマアの値段だし、フィルムを入れてみて写真まで撮れるとしたらこれは驚きだ」という軽い気持ちで、渋谷のその手の小さな専門店で Leica Copy の Zorki-1 を買ったのが始まりであった。
最近忘れつつあった金属製のカメラの冷たさと、フィルムを装てんして巻き上げてからピントを合わせ、シャッタースピードと絞りを選び、写真を撮るというあたりまえの素朴な行為を思い出した。
その後は eBay のオークションで Ukraine 近辺から買うのだが、レンズ付きの1台が20〜50ドル程度であり、種類もかなり豊富なので次々に購入した。もっとも、20台以上購入することになったのは、「まともに動かない個体もある上、どこかに不満があって同じ機種の別の個体がほしくなる」からであった。ソビエトカメラに「合格点」など求めてはいけないのだが、「気に入らなかったらジャンク品として日本のオークションで売れば多少の値がつくから大した損にはならないだろう」という程度の軽い気持ちで買い漁った。実際、買ったものの半分以上は国内のオークションで整理した。
結局1年経ち、今手元に残っているのは、以下のとおりRFボディ3台とレンズが7本である。中では、Jupiter-12 の描写が気に入っている。
【レンジファインダーボディ】
・Zorki-1(ライカコピー)
・FED-2(ライカコピー)
・Kiev-4A(露出計ナシ)(コンタックスコピー)
【Leica Mount レンズ】
・Jupiter-8M 50/2.0(ゾナーコピー)
・Industar-22 50/3.5
・Industar-61LD 55/2.8
【Contax Mount レンズ】
・Jupiter-12 35/2.8(ビオゴンコピー)
・Jupiter-3 50/1.5(ゾナーコピー)
・Jupiter-8M 50/2.0(ゾナーコピー)
・Jupiter-9 85/2.0(ゾナーコピー)
ソビエトカメラの良い点は、「話題性」である。ライカを持っている人は増えて来ているが、ソビエトカメラを持っている人は少ない。40年も前の古いカメラで、「普通のフィルムを使って写せるんです」と言ってカチャリと撮り、後日、ちゃんと写った写真を見せると驚かれる訳である。しかし、この域に達するには、「光線漏れのないKIEVを探す」「同じマウントなのに相性が悪くて取り付かない Jupiter12 に苦労する」などというストレスに耐える寛容さがないといけない。
ソビエトレンジファインダーに端を発して、夏頃には一眼レフのM42マウント(プラクチカねじマウント)中毒にもなってしまった。
学生の頃はキャノンFD党であり、その後AFが出た際にもEOS650にしたが、しばらくしてAFだけNIKONに乗り換えた。
そうこうするうちに、2年ほど前に初めて中古で「遊び」として買ってみたCONTAX167MTと Planar 50/1.4 を使い、一発でZeiss が好きになった。
このCONTAXにアダプターで付けられ、絞り非連動ながらも実絞りAEが使えるレンズというので、旧東ドイツとソビエトのM42レンズを合計5本買った。
ペレストロイカ後の、Made in Russia のレンズも多い。これらの中では、200ミリのゾナーのやわらかさと発色、20ミリの描写が気に行っている。16ミリと20ミリの広角レンズはどちらも新しいものだが、100ドル強という値段が信じられない性能である。以下の5本のうち、ゾナー以外はソビエトもしくはロシア製である。
・Zeiss Jena Sonnar 200/2.8MC
・MC Zenitar 16/2.8
・MC Mir 20/3.5(旧東ドイツ Flektogon コピー)
・Jupiter-9 85/2.0(ゾナーコピー)
・Jupiter-37 135/3.5
実は、M42マウントのレンズは、「キャノンの一眼デジカメでフルサイズCCDでないもの(そろそろ後継機のうわさが飛び回っているが、1月10日現在はD60)を買ったときに有効に使える。特に広角は必須だ。」という言い訳を自分でつぶやきながらそろえたものでもある。しかしながら、一足飛びに一眼デジカメには行かず、まだキャノンのG3で我慢している身であるため、しばらくは、M42レンズのデジタルデビューの機会はなさそうである。
こんなわけで、昨年はオークションでの売買と手に入れたカメラ・レンズのテストばかりで、まともな写真を撮る機会が少なかった。
今年こそは少し真面目に撮ろうと思う今日この頃である。最近はフィルムで撮った写真も原則プリントせず、CDRに焼いて保存しているので写真の整理が楽になり、撮影行為への負担感も軽減している。
近年急速にデジタルの性能が向上してきたため、撮影に関しては、
・古いレンジファインダーで撮影行為そのものを楽しむ(フィルムを使用し、CDRでデジタル化して管理)
・一眼デジカメで写真の質そのものを楽しむ
という2極の両方を満喫したいと考えている。
ただし僕の場合はあまり高価なものを買わない(買えない)上、Ukraine からの購入も多いため、消費税がいくら引き上げられても、低迷する日本経済への貢献度は微々たるものに留まっている。これは小泉首相に申し訳ないと思っている。
購入記録:
20020323
20020223
20020129
クリーニング屋にて
行き付けのクリーニング屋に、「本年から消費税5%をお預かりします」との張り紙があった。
平成16年度から消費税の免税ポイントが引き下げられ、零細個人事業主も納税を余儀なくされることを見越してのことだろう。
消費税率を毎年1%ずつ引き上げるという意見も出されていることを考えると、無視できない措置である。
しかし、今の時期の「5%お預かり開始」というのは実質値上げに等しい。
理屈からすれば、来年(=平成16年)4月1日からとすべきではないのだろうか?
消費税の免税点1,000万円(現行3,000万円)、簡易課税5,000万円に(⇒平成16年4月1日以後開始事業年度から)
明けましておめでとうございます/Serendipity
○○様
新年おめでとうございます。2003年が明けました。
アメリカでは旧年中から Happy New Year と言うのに、日本では決して旧年中からは「明けましておめでとう」とは言いません。
Happy New Year というのは Have a Happy New Year だから旧年中から使えるわけです。
目の前の相手にとっての「良い年」を願うアメリカに対し、状況として年が変わったことを客観的に祝おうとする日本。
日本の「明けましておめでとう」の方が曖昧であり、主体性のない挨拶なのかもしれません。
今年の東京の元旦は午前中うす曇り、午後になって日が射して来ました。
風も冷たく、ちょうど3年前の Philadelphia と同じような天気です。
昨年11月の映画を観たわけではないですが、最近、Serendipity ということを意識しています。
Serendipity というのは、ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)が童話『セレンディップの三王子』
(Three Princes of Serendip)(*)に書いた言葉に由来しているそうです。
(*)その昔、セレンディップの王国時代に3人の聡明な王子がいた。王子たちはセレンディップ王である父に、見聞を広めるために航海に出たいと申し出た。父と相談しながら構想を練り、計画をたて準備万端ととのえた王子たちは意気揚々と船出するが、緻密な計画はすぐに頓挫する。周辺国を踏破し、非常に発見が困難とされる龍の珠などの宝物を持ち帰るように命じられているのだが、暴風雨に見舞われ、海賊に遭遇し、次々に思いがけないできごとが起こって、思いがけない冒険を強いられる。王子たちは果敢に立ち向かい、そのたびごとに成長していく。船出するまえには予想もしていなかった体験を積んで、さまざまな貴重な収穫を得たのであった、めでたし、めでたし……。
"serendipity = the natural ability to make interesting or valuable discoveries by accident"
「セレンディピティ=偶然によって興味または価値ある発見を行う自然に備わった能力」。
発想法としてのセレンディピティとは、「狙ったものよりも、その横にもっと面白い発見をする」、「今まで分かっていたのに気がつかないことが明示化される」、「これまでの結びつきではない、別の結びつきを見つける」という発想法です。 日本でも、江崎博士や白川博士の発見がセレンディピティと関係があると言われています。
「運」は自分でコントロールできないことですから「運」なのですが、それが確率的なものであるとしたら、その起こりやすさの確率を変えるような行動が可能だと思えます。
何かが起こっていることに気づかずに通り過ぎてしまう、あるいは、何かが起こることに気づくのが遅れ、チャンスを失ってしまう。日頃の心のもち方、ちょっとした行動パターン、他人へのアプローチの仕方等々、ささいなことが、時として突然に訪れる「チャンス」または「危機」の際に自分の「運」となって現れて来る。
そんなものなのでしょう。
きょう5年ぶりに、「僕がなぜホームページを作ったか?」をアップデイトしました。