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   氏 と 苗 



【古代の姓氏について】
 上古の階級は貴族、平民、伴部、賤民等で構成され、貴族のみが姓を保有していました。
 允恭天皇時代に、君、臣、連、直、造、首の六種の姓が制定されています。
 天武天皇時代に、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置の八種に改訂されますが、現実に賜姓されたのは上位 の四階級です。
 真人……允恭朝制定の君に相当する皇裔諸氏、平安朝以降は朝臣の次に位する。
 朝臣……允恭朝制定の臣に相当する皇裔諸氏(例外として有力神別諸氏)、平安朝以降は皇神蕃の別は消滅。
 宿禰……允恭朝制定の連に相当する神別諸氏(例外として皇蕃諸氏)、平安朝以降は皇神蕃の別は消滅。
 忌寸……允恭朝制定の直(国造や諸蕃)及び造(伴造や諸蕃)に相当する諸氏。
 後世になりますと、姓より源平藤橘などの氏が尊重されて、藤原朝臣氏、源朝臣氏のように氏が敬称の代名詞のように使用されます。 


【家号・名字の発生について】
 上古の時代は数十人から数百人の同一血縁者が群居した氏族社会を構成していましたが、族内結婚は禁止されていました。
 そのため、氏族で出生したものはそれぞれの生母が属していた氏族集団や他の氏族集団との結びつきが多くなりました。
 律令国家の戸籍制度になりますと、国民の多くが氏を持つことになり氏族集団名を踏襲した同氏を名乗る家が多く、公的には氏と姓を名乗り私的には別途家号を名乗ることになります。
 藤原氏を例に採れば、二代不比等の子四人が住居の方角により南家、北家、及び式家(官職の式部卿)、京家(左京大夫)の屋号がみられます。
 後世の子孫が多枝分流すると各人の居宅地名を名乗るようになりますが、居宅の女系領地により父子でも家号が変わる事も発生しました。
 例えば、摂関家歴代は一条良房、堀河基経、小一条忠平、小野宮実頼と代々を嗣ぎ、鎌倉期に入ると居所が近衛北室町東亭にちなんで近衛名字を世襲するようになります。
 公家の中には祖先建立の寺院号に由来する西園寺、徳大寺、勧修寺などを名乗る例もあります。
 武士の場合は公家よりやや早く平安末期より父系制へ移行しており、開発した領地を権門勢家に寄進して荘園管理者として収まり、荘園名を名字として名乗り、名字地として一族で荘園を世襲していました。
 また初期の武家は分割相続が主流で、分家は領内の小地名か移住した新地名を名乗り名字が累増するようになります。
 特に平家滅亡後は、関東の武士団が西国をはじめ全国の平家没落領地へ新地頭として移住して、新地名を名字として名乗ったり、また自己の名字を移住地の地名とする等で全国的な地名遷移や名字改名が盛んになります。 


【姓氏と名字苗字について】
 古代は氏族集団の氏と階級を表す姓が複合されて使用されていました。
 平安時代末期頃から、貴族は居住地などの称号、武家は名田の名字などを称して、古代の氏は姓と混称されるようになります。
 近世に入ると源平藤橘などの氏は公式文書のみに使われ、日常的には名字が一般的に使用されるようになりました。
 その名字がやがて苗字と呼ばれるようになります。
 明治時代以降、国民皆称の時代になりますと、氏は廃止されて苗字が日常的にも公式的にも使用されるようになります。
 その後は、個人の名称を表すのに一般的に氏名又は姓名と呼ぶようになりました。
 しかしながら、現代においても文部科学省では名字を、また法務省では氏を正式に使用しています。


【天皇家について】
 建国神話に拠れば天照大神の直系とされ、源平藤橘の四姓にしても源平橘は天皇家の支流、藤原摂関家は天皇家の強固な外戚であり、天皇家に近い家が名家とされるのは神代から明治・大正・昭和・平成に至るまで一貫した原則です。
 従って古代から皇位継承の争いや、天皇家を中心とした南北朝の争いの様な史実も残っています。
 皇室(天皇一族)が一般国民と大きく異なるのは、姓氏や苗字を持たないことです。
 また皇族には戸籍が無く、皇統譜(大統譜および皇族譜)に記録されています。
 神武天皇が大和に政権を樹立した当時は政権を支える他の豪族も姓氏を持っていませんでしたが、垂仁天皇時代に武日命が大伴連を称し始め、公卿補任に拠れば仲哀天皇時代に子の大伴健持が大連の号を賜ったと記載があります。
 応神天皇時代以降の豪族は概ね氏族集団の識別として天皇家から姓氏を下賜されています。
 大宝元年(701)には天皇諡の規定が定められた大宝律令が発令され、42代文武天皇から適用されています。
 文武天皇を除く神武天皇から44代元正天皇までの諡号は、淡海御船が勅を奉じて一斉撰進したと伝えられています。
 また現代の天皇の称号は一代で終わり、崩御後には漢風諡号が奉られていましたが明治以降は新しく元号が定められる事になりました。


公家(堂上家)について】
 公家は武家に対する言葉で、京都の朝廷を構成する人々の総称でした。
 広義に公家は堂上家(昇殿を許された家)と地下家から構成されましたが、一般的には堂上家を指しています。
 官職としては、摂政、関白、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議等からなります。
 家格としては、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区別があり、古くからある家を旧家、文禄慶長以降創立の家は新家と呼ばれ、幕末には137家になりました。
 堂上諸家の系譜は「諸家知譜拙記」に記述されています。
 個々の公卿については「公卿補任」に記述があります


大名について】
 元来大規模な名田を耕作するものを大名主と呼んでいましたが、鎌倉期以降は大規模所領を持つ武家、南北朝時代は守護、その後は戦国大豪族のことを大名と呼び、江戸時代には万石以上の領主を大名とも呼ぶようになりました。
 また、将軍家との親疎度により親藩、譜代、外様の別、格式により国主、准国主、城主、城主格、無城の区別があります。
 官位による家格としては、極官が大納言の尾張徳川家、紀伊徳川家、中納言の水戸徳川家、参議の加賀前田家を上位として中将、少将、侍従、諸太夫までの格付けがあります。
 江戸期の大名に関する資料は色々ありますが、民間出版の「武鑑」には大名の姓氏、紋章、槍印、本氏、本国、官職、官位、石高、屋敷所在地及び略系図、宗旨、菩提寺のほか家老などの重役家臣名の記載もあります。



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