今回の特集も、終盤にさしかかってきた。

 このテキストでは、「オタク」「もてない男」「引きこもり」を例として、能動過小傾向のみられる男性達の(いま現在ではなく)長期的適応の展望について推論を試みる。また、さらにそうした能動過小傾向の認められる男性を多く含む「新世代の男性達」※1を含んだまま進んでいくマクロレベルの数十年後についても一応の予測を提示してみたいと思う。一つ前の章で論じた通り、適応や防衛の個人的形式には善悪という視点を採用するのはお門違いだと思う。だが、それぞれの適応形式が長期的に厳しくなりやすいのか否かは、別途検討してみる意味があると考えた。





 ・能動過小傾向の強い「オタク」の長期予後

 2006年現在、オタク趣味を主要な娯楽として消費する男性の少なからぬ割合が消極的なオタク趣味選択者であり、自分自身がオタクであることに後ろめたさを感じつつもオタク文化圏から外にコミュニケートすることが出来ない状態にあることは先に述べたとおりである。オタキング岡田氏や大塚英志氏がかつて称揚したところの「おたく」はともかく、「オタク趣味を消費するしか選択肢が無くてオタク趣味に埋没して一歩も動けない」現代のオタク達。彼らの長期予後はどのようなものだろうか?

 オタク達は、オタクコンテンツ消費とオタクコミュニティにおける楽しい一時を導入することによって、異性にまつわる葛藤や、「自分達オタクが劣っている」と思うことに伴う葛藤を緩和(防衛)することができる。これは、短期的には優れた適応であり、願望が充足されないにも関わらず彼らの心的適応がそう簡単に破綻しない事に積極的に寄与している()。しかし、短期的な心的葛藤の緩和(これは、純理性的選択というよりもautomaticな本能的選択に属するものだろう)は、葛藤に因る「現在の」自分自身のストレスを除去することには適していても、長期的ビジョンに立って葛藤の根本的解決をはかるものではない。短期的には葛藤への対処として効果的なオタクコンテンツ・オタクコミュニティへの耽溺は、長期的な葛藤解決という視点からみると、むしろ葛藤解決の先送りを促していることになる。

 注意すべきは、この問題の先送りは、単に葛藤が持続することを意味するだけではないという点である。歳を経るごとに、加齢による脳の硬化(異性をはじめとする)非オタク達への苦手意識の累積加齢に伴う“社会的な恥のかきにくさ” といった、葛藤の根本的解消※2の妨げになるファクターは増大していくのだ。一般に、25歳の能動過小オタクのほうが、20歳の能動過小オタクよりも望まないまま閉じ込められている状況を何とかしにくい。同様に、30歳のオタクのほうが、25歳時よりはオタクよりも異性にまつわる葛藤を解決しにくい。つまり、能動過小傾向の強いオタクがしばしば選択する、「オタク趣味世界とオタク界隈だけに耽溺し、外をみないで遊び続ける」という適応形式は、年余を経れば経るほど葛藤そのものを正面きって解消することを困難にし、適応戦略の幅を先細りさせるリスクを含んでいると思われるのだ。永年の葛藤が真の諦めを生み出してくれたり、性欲の減退が異性にまつわる葛藤を解消してくれればそりゃ良いが、私の知る限り、なかなか執着は捨てられないようである。ましてや、思春期のまま時間が止まったが如く“繊細な”自意識を抱えたままのオタクの場合、そう簡単に執着を捨てられるとは思えない。むしろ、永年にわたる葛藤はさらに強化され、こじれ、今まで以上に強い防衛機制をもってしなければ心的ホメオスタシスを維持し難い状況へと進行していく可能性すらあると私は考える。少なくとも、そのような心性に至りつつある三十代後半〜四十代の(パッシブな)オタクをチラホラ見かけることは、もうある。

 まだ二十代のうちは、オタク界隈への耽溺による防衛を実行しながらも「まだ何とかなるだろう」と楽観を決め込める余地があるかもしれない。だが、三十代後半になっても“好きで選んだわけじゃないとは今更言えないオタ趣味”しか葛藤を補償する手段が無いとすれば、「もう駄目だ」と思わざるを得ず、その現実を直視することは強いストレッサーとなってオタク個人にのしかかってくるだろう。自然、一層強く自己欺瞞の防衛装置を働かせなければ、ストレスの前に屈して心的ホメオスタシスを崩しやすい状態になってしまうと推測され、そのような個人は、メンタルの安定を保つために防衛を強化しまくる※3か、心の均衡が危うい状況に甘んじるか、(もし、数十年後にも消費資本主義が残存していれば甚だ困難だが)執着と欲望の坩堝から離脱するか、いずれかを迫られるだろう。三十代になっても「異性を意識しながらもエロゲーでその葛藤を緩和し、なんとなく退屈だけれども他の選択肢は針の筵だからイヤ」という人達は、将来より一層大きな葛藤に直面せざるを得ないと私は想像する。


・ソリューションについて

 こうした能動過小傾向の強いオタク達が遭遇するであろう、将来の強い葛藤に対処するソリューションはあるだろうか?いや、無いわけではない。例しに幾つかの可能性を挙げてみよう。以下に該当する何かがあれば、能動過小のオタクが中年期に莫大な葛藤を抱える可能性は減弱する可能性がある。


(1)正面からの解決:自分自身の適応状況を改変する(所謂脱オタ)

 このサイトでも度々とりあげている、所謂脱オタを行うことによって、葛藤を直接解決するという方法。しばしば勘違いされやすいが、“お洒落になればそれで良い”というものではない。お洒落はあくまで自分自身の適応状況を改変する一手段または触媒であって、脱オタ者達の真の目的は自分自身の葛藤(主として非オタクとのコミュニケーションに関わる葛藤)を直接的に解決することにある。劣等感や葛藤を直視したうえで、自分自身の適応状況や心的傾向に欠けているものを補うには、【長い年余と莫大な資金・幸運・時の運・女神の気まぐれ・それなりの努力・奴隷ではない環境】等が必要だが、何よりも必要なのは自らがコンプレックスを持つ場面において屈辱や未熟さに涙しながらも経験と学習を必死にかき集めることだろう。その蓄積を通して自分自身と周囲を僅かづつ変化させていくのが、脱オタのプロセスと言える。

 これは、口で言うのは簡単だが実行するのは簡単なことではない。劣等感の防衛・葛藤の防衛としてオタク趣味がやたら消費されているのは、屈辱や未熟さや自己不全感と距離をとらなきゃやってられないという要請があるからこそ防衛に固執しているのだろう。そんな人に、防衛という名の目隠しを外して葛藤を直視せよというんだから辛くて当たり前だ。しかし、一から脱オタする人に対して私が最初にアドバイスするとしたら、『あなたは屈辱にまみえながらも、泣きながら失敗から自分自身の改善点を持続的に学べるか?それが出来ないなら諦めろ』と私は言い放つしかない(これまでも言ってきた)。恥や屈辱に耐えるだけでは駄目、かと言って、本を読んだり他人の脱オタ記録を読んで問題点を客観的に把握するだけでも駄目…。その両者の同時進行を根気よく繰り返すには、そこそこ賢く、幾らかタフで、ちゃんと根気強いことが要請される。金銭や時間も必要だろうし、年齢が高ければ高いほどハードルは厳しくなる。よって、この解決法は比較的若くて、素養上の極端な問題を有さず、葛藤と防衛に凝り固まり過ぎていない人においてのみ有効なものと思われる。事実、1970年代以降生の能動過小傾向のオタクが、脱オタという名の“何年もかかる外科手術”を受けるパーセンテージは決して多くない。ファッションの変更までは昨今の秋葉原のオタク達はやっているようだが、葛藤の直接的解消にまでこぎ着けた脱オタ者がどれぐらいいるのか&満願成就となっているのかは、分からない。


(2)オタク趣味による自己実現やちょっとした創造性の発露

 個人的には、この途が一番門戸が広く、オタク的に満たされた境地に近いように思える。

 最初は消極的にオタク趣味を選んだ人でも、長年培っていくうちに愛情が湧くこともあるだろう。また、アーケードゲームで全一とったり、誰にも創れない同人誌を制作販売すれば、オタク界隈という狭い井戸のなかでは葛藤を解消したり、尊敬されたり、コミュニケーション上手になれるかもしれない。そうしたチャンスは、オタク趣味の世界のなかにも沢山あるし、特に同人・ネトゲ・アーケード等々のオタク界隈には結構転がっている。少なくとも、ネット/非ネットを問わず、そういうオタクやおたく※4はあちこちに存在して自己実現した満足している。

 グダグダの消極的消費者から、どういう形であれ積極的参加への切り替えが適うならば、葛藤の補償以上の意味合いと楽しみがオタク趣味から沸いてくると私は期待している(し、普通、程度の差こそあれオタク達はそういうものを感じていると思う。よっぽど徹底して能動過小なオタク以外は)。少なくとも、オタク同士の会話が弾みやすくなる事が期待できる、オタク趣味の味わいを深めやすくなる、等々の効果は期待できるし、その結果として葛藤は解消されやすく、喜びは大きくなるとは言える。さらに、オタク趣味に前向きに取り組んだ結果、エキスパートやプチ・クリエイターを自任するような心的傾向を育むことにより、ひょっとするとオタク趣味世界以外における振る舞いや行動にも好影響が出るかもしれない。同じオタク趣味男性とて、馬鹿にしたり後ろめたい気持ちで消費するだけのオタクと、オタク趣味を敬愛し前向きに突っかかっていくオタクの違いは、日常の色々な言動に透け出るものだろうし、そういう所を非オタクであっても視る人は視ている筈だ(視えない人もいるけどね)、オタク趣味そのものまでは視えないにしても。

 オタク界隈は広大なうえに細分化しており、同人やウェブサイトなどの分野もさかんだ。故に、オタク界隈に住む者が消極→積極に転じたり、自信を獲得するチャンスが結構あるんじゃないだろうか?(例えば)性的葛藤の直接的解消とまではいかなくても、ポジティブに、深く、仲間達と、オタク趣味へと邁進することで案外楽しい生活が出来るんじゃないかと思う。オタク趣味への邁進やオタク仲間との集まりが、単なる防衛の強化以上の何かが育まれる可能性を、私は信じたい。オタク趣味の井戸のなかであっても、ひとつひとつ積み重ねられるものは、ある。





 ・能動過小傾向の強い「もてない男」の長期予後

 モテない男性達、特に女性に対する能動性の少ない男性の予後はどのようなものだろうか。彼らの少なからぬ割合は、議論やホモソーシャルな連帯感を通して性的葛藤を防衛している。また、オタク界の美少女コンテンツ(アニメ絵の美少女だけでなくアイドルも含む)を消費する事によって防衛している人も多い。先のオタクの場合でも挙げたが、この防衛は短期的に葛藤から目を逸らす手法としては本能的且つ有効なものだが、長期的に有効かどうかは必ずしも定かとは言い難い。加齢とともに、問題の直接的解決――つまり女の子と付き合ったりセックスしたり結婚したり――は次第次第に困難になるなか、只の時間稼ぎとその場凌ぎとしての防衛機制の発動が繰り返されるようでは、葛藤は遷延し、固定化する事を避けられない。よって、余程特別な契機が無い限り、能動過小傾向の男性の異性交際に関する予後は、そのままでは不良と言わざるを得ない。

 先に触れたオタクの場合と同様、防衛による葛藤の回避は短期的には適応を向上させる一方で、長期的には葛藤の源を解決することを困難にすると考えられるので、二十代のもてない男よりも三十代のもてない男のほうが挽回の可能性は低く、防衛が強固であればあるほど(或いは防衛が要請される心的葛藤・執着の度合いが高ければ高いほど、と言い換えるべきか)挽回の可能性は低くなるだろう。

 幸い、女性と付き合えないから死ぬという事は無いし、遺伝子に刻み込まれた繁殖欲を満たすことが人間的な生き方かというとそうではないので、四十代五十代になっても女性に縁がないからと言って不幸せに直結するわけではない。女性とは縁がないまま、案外幸福にやっている人もいれば、素晴らしい仕事をした人も沢山いる。だが、「もてない男」を自称する人達というのは、女性と縁がない事を不幸なことだと思いながら女性に執着しているからこその「もてない男」自称なので、そのような執着がある限り、彼らは不幸だったり防衛機制を要請されたりする事を免れない。性欲が十分に減退してくれればいいが、不幸にも男性には閉経が無い。女性に対する執着なり願望を抱え続ける限り、防衛を張り巡らせた「もてない男」達の長期予後はあまり幸せなものではないと推測せざるを得ない、少なくともその次元においては。


・ソリューションについて

 葛藤に対する終わり無き防衛戦を繰り広げざるを得ない「もてない男」達の、長期的葛藤状況を解決・緩和する方法はどのようなものなのかを、オタクの例と同じように幾つかあげてみようと思う。他にもいい方法があるだろうが、さしあたり有用そうなものを挙げてみる。


(1)正面からの解決:自分自身の適応状況を改変する(所謂脱オタ)

 最もシンプルだが葛藤と直接向き合って対決せざるを得ない解決法。繰り返すが、時間もお金もかかるうえに、これまで防衛のマントで守られていた面たるを直接葛藤に晒し続けながら戦わなければならない為、ストレートながらも“脱オタ”を選択する人は少ない。「もてない男」のなかには、自分が異性と交際できない理由を「先天的な顔面の形態」に負わせる事によってその他の諸問題から目を逸らせるタイプの人も多い※5ので、そういった防衛の強い人は、正面からの解決に踏み切れまい。また、こちらにも書いたように、この世代の男性のなかには、努力や掛け金が必要条件であるだけではチップを置こうとせず、努力や掛け金が十分条件である時だけチップを置こうとする人も多い(いや、実際は失敗というチップを重ねつつ少しづつ学習するしかないのだが…)。所謂脱オタは、努力が必要条件であって十分条件ではない試みで、しかも思いっきり苦しく長い道のりである(特に歳とっていたら尚更)受動的になっているだけではなく、否応なく能動的にならざるを得ないし、何より失敗や挫折をたんまり味わいながら歩いていかなければにっちもさっちもいかない。が、それが難しい。

(2)仕事の場で自信をつける
 これは、能動過小のオタクの場合にも言えることかもしれない。仕事の場で成果をあげ、認められ、自信をつけていくことが、当人の能動性全般に積極性を与える可能性がある。また、表情や行動に“自信ボーナス”がつきやすくなって仕事以外の場面における評価も変化するかもしれない。高校や大学の勉強ではそうもいかないかもしれないが、仕事の場面で評価される男というものに人間は敏感である(周囲も、当人自身も)もてない事の葛藤が生み出す余剰エネルギーをもし仕事にぶつけて爆発させる事が出来れば、状況に幾ばくかの影響を与え始めるかもしれない


(3)もてない男による自己実現やちょっとした創造性の発露

 例えば、“非モテ”議論であれ、テキストサイト界隈で昔からみられた“モテない事の芸への昇華”であれ、もてない男達の葛藤を緩和するだけでなく、能動性が醸成される可能性はないだろうか。“もてない”事の葛藤を遠ざけたり昇華したりする効果だけでなく、それらの行為によって得られた能動性が、思わぬところで適応の幅を向上させるかもしれない…と期待してみる。ちょうど、オタク趣味界隈でオタク達が体験し得るのと同じように。

 ただし、オタク趣味界隈に比べると、幾らか難易度が高かったり仲間同士で連めるチャンスが少ない、かもしれない。オタク趣味とオタク仲間に恵まれている人は、オタク界隈側で自己実現や創造性を発揮したほうが何かとやりやすいかもしれない。何にせよ、自分の得意分野で能動性を発揮して面白いものを創って、自己実現していくことは、ささやかなりとも苦手分野における適応にも影響を与えるものと私は考えている。それは、短期的防衛機制の単なる繰り返しを超えた、“何かの蓄積”をもたらすものだと思いたい※6


(4)性欲の減退や、異性への執着からの離脱

 オタクの場合と違い、もてない男の防衛対象“異性にまつわる葛藤”は、加齢に伴う性欲の減退によって幾らか緩和される可能性がある。個人差があるのであまり期待しすぎるのも禁物だが、六十代を超えるぐらいになれば幾らか性欲が減退するかもしれない。SSRI、アルコールの長期暴露、ホルモン系薬物なども性欲減退に貢献するかもしれないが、健康を害する可能性があったり医師の処方箋が必要だったりするので、それらに期待するわけにもいかない。だが、(例えば仏教メソッドでも何でもいいけれど)執着をコントロールする術を身につければ、防衛対象たる葛藤そのものが減弱されるし、執着離脱にはbiochemicalなリスクが無い。

 このメソッドの難しい点は、

1.消費資本主義の跳梁跋扈によって、欲を煽るメッセージばかり多くて欲を節制する技術は全然表に出てこない現況
2.節制に向かう前に、自分自身に異性への烈しい欲望があって葛藤している事を、たぶん一旦は認めなければならない点
3.実際に欲望から“完全に離脱”しきってしまう事は凡人にはまず無理であろう点

あたりだろうか。とはいえ、異性に関する葛藤は、そもそも異性に対する欲望があるからこそ発生するものなので、欲望そのものを減弱するようなアプローチが見つかれば問題は軽減する筈である(原理的には)。私個人は仏教の信仰ぐらいしか欲望を節制する為のカードを持ち合わせていないが、おそらく他にも幾つもの方法があると推測される。

(5)メイドロボの実現
 冗談だと嗤う人も多いかもしれないが、二十年ほどしてある程度の機能を持ったメイドロボが出来れば状況が一変する可能性がある。当初、それは非常に高価で乏しい機能に違いないだろうが、もしかしてもしかしちゃったりしたら、もてない男の葛藤を巡る状況は一変するやもしれない。可能性がどれほどのものなのかは分からないが、こと情報技術に関する限りは何が出来るのか分からない昨今、二十年後にどんなものが出てくるかは予断を許さないところがある。よって、一応書いてみた。まぁ、メイドロボが出てくれば繁殖や性欲を巡る男女の状況は根本から変わってしまいそうだけれども。




・能動過小傾向の強い「引きこもり」の長期予後

 最後に、引きこもりにも触れてみよう。実際には、引きこもりの長期予後は総じて不良と考えられる。ニートのなかでも、就労経験と就労意欲が持続的に欠落している層もおそらく同様だ。昔で言う“高等遊民”に該当するような希有なケースを除けば、彼らはまず、経済的縛りによって自滅せざるを得ない運命にある。言葉を飾って私と読者を直面化から迂回させる方法は幾らでもあるが、敢えて本当の事を書くなら、おそらくそうだろう。二十年三十年と娑婆そのものから全面的に後退した人間が、両親の資産を食いつぶした後に人の世で生きていけるとは思えない。しかも、その頃の日本には同じような境遇の男性が至る所にひしめいていて、福祉も破綻しているに違いない事を考慮すると、引きこもりの長期予後に関する楽観的な見通しは、(昨今の世界全体の精神病理とも言いたくなるような※7)問題からの一時的視線逸らし以上の意味合いを持たないと私は考える。

 能動過小傾向のみられる「オタク」や「もてない男」の場合、なんやかんや言っても仕事をしていたり就学していたりするケースが大半を占めているが、娑婆世界から全面的に後退してしまっている「引きこもり」には、生活を担保する手段が当人に備わっていない。特に高齢引きこもりの場合、いざという時の豊かな適応力の発露も期待しがたい(若くて、比較的浅くて、人との会話も可能な者なら、生きるか死ぬかになったら多分何とかなる気はするのだが)。自宅で誰もが金銭を得られる手段が普及生まれてくれば生き残ることも出来ようが、そうならなかった場合、“悲劇”が数十年後の我が国に現出する事は避けられまい。

 よって、引きこもりの場合の「予後」という言葉は、同じ能動過小傾向スペクトラムに属するオタクやもてない男とは異なったニュアンスを含まざるを得ない。即ち、経済的状況を含めた生存予後である。経済的に独立しているわけではない大多数の引きこもり(特に、度合いがひどく、年齢が高い場合)においては、逃避を中核とした防衛的適応形式を選択し続け、し続けざるを得ない限り、数十年程度先の未来には経済的行き詰まりが待っている。そしてその頃の日本の福祉政策は、今よりも余裕の無いものになっている事は想像に難くない。まして、organicな精神障害ではなく一適応形式としての引きこもりであれば、精神障害者への年金制度を充てにする事は困難である※8。かと言って、年余に渡る引きこもり生活は人と人の間で生きていく為の技能と意志を極限まで削り取り、加齢によって脳は硬くなる一方なので、三十代後半以降の“逆転”は難しい。四十代まで籠の中に暮らしていたホモ・サピエンスの雄を、娑婆世界という名の“野生”に戻したところで生きていけるわけが無いのだ。娑婆というものが、野生動物の世界に近い過酷さを持っていることは、歴史を見る限り明らかである(ここ数十年の日本や、江戸時代の一時期、ローマ黄金期などがむしろ珍しかったんだと思う。娑婆と野生との違いは、せいぜい、ルールが若干違うぐらいか)。高齢の引きこもり達にはその荒波のなかで生きていく為のリソースに欠けている。適応がどうであるかは、彼らの心根が善良か純粋かなどに拘わらず決定されるだろう。


・ソリューションについて

 予防はともかく、いったん引きこもってしまった引きこもりをどうするのか?私には妙案が無い。ただし、いきなり就労とかはともかく、引きこもり個人個人の適応の幅を広げるチャンスは幾つもあると思う。例えば、能動過小傾向の「オタク」「もてない男」達の項目で書いた諸適応・諸防衛はどれも引きこもり者の適応に幅を持たせるチャンスを有していると思う。オタク趣味分野における自己実現や、ネット上における“非モテ談義”による自己実現、あるいはそれらの趣味を通した他者との繋がりetc…。ネットゲーム廃人問題をはじめとして、数少ない防衛カードを手に入れた時に過度にのめり込んでしまう可能性はあるにせよ、“逃避”以外には殆ど適応カードが無い引きこもりにバリエーションをもたらす可能性は期待出来るのではないだろうか。または、対人コミュニケーションの機会を与える窓になりはしないだろうか。『それだけでは不十分だ』という意見も多々あるかもしれないし、事実その通りかもしれないが、適応の幅と防衛のバリエーションを増やせば増やすほど、異なった局面への対処しやすくなるのでは?と私は考えている。

 オタク趣味であれ、だめ連であれ、ネットであれ。適応に供することの出来るカードを一枚でも増やすこと、生活・適応・防衛に幅を持たせること。仕事じゃなくてもいいから、新しい防衛形式の獲得と揶揄されてもいいから、まずは興味や娑婆や人と出会うこと。その為の僅かな一つ一つが、引きこもりの長期予後に何らかの影響を積み重ねていくと私は信じたい。世の中には、いきなり仕事をさせろとか、オタク趣味への迂回を無駄ととる人もいるかもしれないが、ネットだのオタク趣味界隈だのから入っていくのもアリだと思う。ネットやオタク趣味界隈のなかには、(娑婆世界のなかでは比較的)引きこもりにも寛容な場所があるとも思う。また、引きこもりの苦しさや能動過小の肩身の狭さを知っている仲間とも巡り会いやすいと思う。引きこもりの長期予後には全く楽観を許さないものがあるが、小さくとも一つ一つの蓄積機会に、敢えて着目していきたい。


 

・おわりに

 以上、能動過小傾向のみられるスペクトラムのなかから「オタク」「もてない男」「引きこもり」の長期予後と、予後を楽にするソリューションについて書いてみた。葛藤を防衛するプロセスとしての彼らの行動選択は、短期的には少ないコストで葛藤を改善させるものの、長期的には問題を遷延化させる傾向が強く、総じて葛藤の源が解消されないまま深刻化してしまうリスクが高いと私は推定している。特に、葛藤を遠ざける距離が遠く、葛藤を遠ざける時間が長いほど、強固な防衛に凝り固まったままになりやすく、問題を直接あるいは間接的に解決することが難しくなることだろう。

 だが、最も深刻な引きこもりも含めて、全くソリューションが無いと決めてかかるのは早計だろう。程度問題にもよるが、長期予後に直接/間接的に影響を与える様々な選択肢が殆どの個人にはある筈だ。いわゆる“脱オタ“のような真正面の解決法・対決法だけでなく、様々な方法や様々な適応の形があるだろう。解決の形も一つではなく、単に防衛カードが増えただけという場合もあるかもしれない。しかし、防衛カードが一枚増えるという事はそんなにバカにしたものだろうか?とんでもない!確かに適応の幅が広がったのだ!コミュニケーションや対人関係にまつわる能動過小傾向の強い男性は、どのジャンルであれ、適応の幅が狭まりやすく葛藤をひたすら防衛するしかない処世を迫られがちだが、ジャンル・フィールドに関わらず、小さな蓄積の一つ一つが個人の将来の適応像に何らかの影響を与えると私は確信している

 個人の適応を考えた時、「無意味で、後日の自分の糧にならない経験」など存在しない。足枷となった痛い経験すら、後日の適応に一定の示唆を与え得るチャンスは有る。能動過小傾向の男性達の長期予後は決して楽観は出来ないにしても、単なる葛藤の防衛以外の意味合いには、注目と期待があってもいいように思う。







 【※1「新世代の男性達」】

 今回、能動過小傾向の強い男性の主軸として「オタク」「もてない男」「引きこもり」を挙げたものの、実際はこうした“わからないところの多い他者への一次的能動的接触の後退”はスペクトラムの濃淡差こそあれ、同世代の多くの男性(ひょっとすると幾らかは女性にも?)に認められるものと私は推定している。

 また、男性においてみられる事の比較的多い能動過小傾向と、女性においてみられることの多い過剰適応とは表裏一体の関係にあると思う。[関連:こちら] この辺りにも、出来れば後日触れてみたい。そして彼女達も、彼らも、コミュニケーションの個々の試行には絶対失敗するわけにはいかないという強迫性を持っているという点では共通しているのだ。




【※2根本的解消】

 または適応ゲームにおける敗者復活、と呼ぶべきだろうか。むろん、生存と繁殖と快楽にまつわる“負けないゲームの進行方法”は、葛藤のダイレクトな解消という真正面きってのものに限らない(し、それについては後述する)。特に、一匹の雄ザルとしての繁殖や淘汰に関する視点を離れて、いかに人間として生きるのかという視点を採用する場合は尚更である。

 とはいえ、正面からの解決が最もスッキリするものには違いあるまい。それが必ずしも全ての男性にとって実現可能な選択肢かと言われると、微妙なところもあるにせよ。




【※3防衛を強化しまくる】

 強烈すぎる防衛機制の展開は、自意識を葛藤から回避させるには強力な手だが、強烈になればなるほど、他者からその意図を看取されてしまいやすい。自意識に施された目隠しは、判断をねじ曲げやすいばかりでなく、周囲の人間(あなたのオタク仲間も含む!)にうるさがられるリスクを負わせてしまう。うるさがられる結果、同じような目隠し仲間以外との交際の途を絶つことになるだろう。

 少数の防衛仲間以外を全て忌み嫌いながら人生行路を進んでいっても幸せになれるという人は、そうすればいい。だが、私が娑婆で見聞きした限り、その手のカチコチ防衛中年が幸せだったという例はあまりみかけない。一般的には、茨の道を不承不承歩いていく可能性のほうが高いのではないかと私は疑っている。



【※4オタクやおたく】

 ここでは、クリエイティブにオタ趣味と向き合い自己研鑽を続けるオタ人種を指して“おたく”と区別して呼んでみた。そういえば、オタキング岡田氏が煽ったプチクリも、岡田氏自身が説いた“おたく”に近しいものかもしれない。少なくとも、私達はオタクから(何らかの形で)おたくに転向する事は可能だと思う、たとい性的葛藤等を抱えていたとしても。

 そして、オタク界隈において自己実現したり受動→能動へとシフトする傾向が強くなってくれば、非オタク分野も含めた本人の心的傾向にもそれなりの影響を与えてくれるのではないか?俯きがちな日々よりは、顔をあげておたくとして歩いくほうが、劣等感少なく生きていけるのではないか?あるいは(オタクが結構夢見がちな)結婚は出来ないかもしれないにしても、もっと積極的に日々を謳歌しやすくなるのではないか?少なくとも、世の中にはシューティングで全一とった事が脱オタに大きな影響を与えたなんて人もいるし。

 注:オタクとして変に堂々としている事が、非オタク分野における劣等感を補償する為の防衛でしかないなら駄目だとは思う。ただ、堂々たる能動的なオタクとして暮らしていく姿勢が、非オタク分野にも波及するようになったらいいんじゃないかな、という話。



【※5その他の諸問題から目を逸らせるタイプの人も多い】

 確かに、先天的な顔面の形態というのは繁殖に影響を与え得るものだとは思う。私はその事を認めざるを得ない。しかし一方で、先天的な顔面の形態というものは「見た目」の100%を形成しているわけではない事には十分注意を喚起しておかなければならない。表情やファッションや身振り手振りなどといった、皮膚から透けて表出される諸要素によって、「見た目」なるものは修飾な就職を受けているという事を忘れるわけにはいかない。非モテのなかでも「顔面障害者」を自認することによって、女性へのいかなる接近行動も放棄することを正当化する人達は、先天的な顔面の形態という問題に焦点をあてる事によって、それ以外の問題点を視界の外に追い出すことに成功している。あるいは自己正当化に成功している。そういう時の彼らは、あくまで頑なだ。

 逆に“内面なるもの”が全てというのも極論だが、“内面なるもの”と“外面なるもの”の区別は非常に曖昧だという事、“外面なるもの”のうち顔面の形態や伸長などといった純先天的・物理的要素の割合が存外小さい事には注目を促したい。特に男性の場合、純先天的・物理的要素によって異性との交際を諦めざるを得ない割合は(女性に比べれば)まだしも少ない。しかし、そこの所を「自称顔面障害者」男性達は視野から追い出している。勇気があったり、金を稼いで来れたり、タフだったり、知的だったり、色々な魅力をディスプレイ出来るならば、余程顔がクラッシュしてでもいない限りはまだまだ女性を惹き付け得るのだが、そこに注目する前に、顔面障害者である事を理由に葛藤多き考えに踏み込むのをやめてしまうのである。



【※6もたらすものだと思いたい。】

 厄介なのは、自分の得意分野――オタ分野でも非モテ談義でもよい――においてすら、能動過小傾向が濃厚にみられる場合である。特に、失敗出来ないとか、プライドが許さないとかいった事由によって、オタ界隈の付き合いや活動のなかでも防衛防衛しちゃっている場合は、思い通りに力が出せないし、能動性の獲得幅も小さなものにならざるを得ない。オタク界隈は、現在、防衛が強い男性によって多く占められているためか、幾らか防衛機制が観察されるぐらいではヘイトされない程度に寛容だが、程度が過ぎると嫌われる&ウケにくくなってしまう。短期的防衛機制の繰り返しを超えた何かを獲得するには、せめて得意分野では伸び伸びと羽を広げる必要はあるだろう、おそらく。



【※7昨今の世界全体の精神病理とも言いたくなるような】

 しかし、考えようによっては必要な防衛と言えなくもない。グローバルなレベルでは地球温暖化・資源の奪い合いや食糧問題など、ローカルなレベルでは国の借金・福祉の破綻・第二関東大震災など、個人の力ではどうにもならないんだけれど、高い確率で起こりそうでリスクが目白押しな昨今の娑婆世界。だが、それらをいちいち直視しながら生きていくのは精神衛生上あまり健康的とは言えない。“降ってくる空を眺め続ける”行為は、神経を痛める割には個人の適応を向上させてくれないものなので、一人一人の個人が“降ってくる空”から視線をそらせて忘れて日々過ごすのは決して愚かな事ではない。むしろ、日々を健康に過ごしていくには必要な防衛だと考えるべきだろう。

 なお、エコ商品を購入する個人は、地球を守る為に購入するわけではない。「個人の力では回避不能な災厄を何とか是正しているという気分」を購入して自分が安心する為に、エコ商品を挙って購入するのだと、私は断言してみる。エコ商品は、誰もが薄々知ってはいるけれども目を逸らせたい“どうにもならない災厄”の不安を防衛するうえで優れた商品だし、だからこそ売れるのだろう。まぁ、思惑がどうあれ、もしエコ商品で実際に環境が改善すればそれにこしたことは無い。だが、おそらくだが、Aというエコ商品が真に地球環境に優しいか否かはエコ商品消費者にとってどうでも良いことで、Aという商品がエコ商品だと銘打たれている事が消費者には重要なのだろう。もし、真に地球の為を考えてエコ商品を選ぶなら、Aという商品がどれだけ地球環境に優しいのかの度合いを気にする筈だが、消費者はそれ以外のところに目を向けてエコ商品を選択しているようにみえる。それ以外のところというのは、つまり、「エコ商品を買った気分」である。

[関連]:環境問題に対して要請される防衛機制?


【※8精神障害者への年金制度を充てにする事は困難である】

 斉藤環先生は、「高齢でにっちもさっちもいかない社会的引きこもりに対して(本来は障害者対象の)障害者年金の支給対象として申し込みを行っている」と本(確か、『社会的引きこもり』)で書いていたし、私自身も含めて多くの臨床医は、そのようなケースに出会ったら、「目の前の人に最善を尽くす為に」そうする可能性が高い。都道府県ごとの判定基準や当人自身の状態像によってケースバイケースな所はあるが、少なくとも2006年現在、社会的引きこもりの人が障害者年金を受け取れる可能性はそれなりに、ある。

 しかし、高齢引きこもりの経済的破綻が激増する2026年頃の日本では、おそらく、社会的引きこもりに障害者年金が支給対象になる可能性は著しく狭められていると私は推測している。単純に人数が激増するであろう事と、そうでなくても福祉費用がパンクするであろう事を考えると、個別の症例を対象に精神科医達が“障害者年金の対象となる兆候が持続していないか模索する”途は、いよいよ閉ざされる可能性が高い。ましてや何とか外出可能な程度の場合は、障害者年金取得は全く不可能に近いと私は予測している。
(実際は、脳の純器質的な疾患に対する障害者年金すら危ないんじゃないの?!)


注):なお、引きこもりと一括りにされるなかには、統合失調症に罹患しているために外出出来ないでいるケースなども潜んでいるが、ここで言う「社会的引きこもり」には所謂精神者は含めず、適応形式としての引きこもり・神経症圏としての引きこもりだけを指している。